2017年10月5日木曜日

小説「月に雨降る」52

「本当にあの時は鳥肌が立って、しばらく収まらずに呆然とした記憶があるわ」
希伊はここで少し過去の話を切った。
ここまで希伊は遠くを見る目でゆっくりと話してきた。龍一は時折ウィスキーを舐めるだけで黙って話を聞いていたが、最後の図面の「氷室工務店」のくだりでは同じように鳥肌が立った。自分も毎日図面と格闘している身で、伊三郎とはいわば同じ業界の大先輩みたいなものだ。これも何か、希伊を介して引き寄せたものがあるような気がしてならなかった。
龍一は初めて口をはさんだ。
「希伊のお父さんがその図面を描いた時は、当然希伊はまだ生まれてなくて、まさか何十年もあとに自分の娘がその店に関わるとは想像もしてなかったろうね」
「本当ね。今でも私も信じられないくらい」
ビールをくぴりとひと口飲んで続けた。
「でもなんか偶然て言うより、むしろずうっと細い糸で繋がっていたような気がするの。下を向いてその糸を何年もかけてたぐって歩いて来て、糸の端っこにたどり着いたときに、ふと顔を上げたらそこに父と母が立って待っていたような。ただ、その時の二人の顔が笑顔だったかどうかは私には想像出来ないけれど」
龍一は亡き両親の心に想いを寄せてみた。伊三郎は希伊の存在すら知らずに自らの命を絶ち、母の希沙子は絶望の中で生まれた、ちいさな希望の光だったはずの幼い我が子に、十分な愛情を注げぬまま重篤な病でこの世を去った。二人とも胸がつぶれるほど無念だったに違いなかった。

しばらくすると希伊はまた記憶の糸を引き寄せるように話し始めた。

希伊がまだ生まれる前、希伊の実の父、氷室伊三郎がFMコーポレーションの店舗工事を孫請けとして受注し、何十枚もの施工図面を一式作成していた。伊三郎が幾晩も徹夜しながら描いた図面だった。店舗が完成後FMが強引に仕上がりに難癖をつけて工事残高の支払いを拒否したため、末端の氷室工務店は一気に窮地に追い込まれた。伊三郎は上京してFM社長の永山剛に面会し直談判をしたのだが、冷徹にあしらわれたその結果、自動車事故を装い保険金目的で自殺したのだった。その時妻希沙子のおなかに小さな命が宿っていることも知らずに。「赤い屋根の店」はFMが石川県に初めて出店した店舗であると同時に、伊三郎が最後に仕事をした建築だった。

昔希伊が探偵の黒坂から聞いた話を胸に、改めて不動産屋にも話を訊いた。希伊にとっては憎むべき養父剛の店舗であったが、また反面実父伊三郎の唯一の遺品、遺産のように思えた。この父が遺してくれた家に住もうと決心した。当初二階も客席にするつもりだったが、料理を二階に上げるためのダムウェーターの増設費用が捻出出来なかったことを逆手に取り、二階は自分の住まいにしようと思ったのだった。顔も知らぬ父や母とやっと一緒になったような気持ちになれた。更にFMが赤字経営で手放したこの店を再生しなんとか成功させることで、剛に対してささやかではあるが見返すことにもなる。こうして希伊は数奇な運命のもたらす偶然から念願の店を持つことになったのだった。

金沢へ来て以来、もともと女としての魅力を持っていた希伊を男が放っておくわけがなく、その中の何人かの男ともつき合った。中には真剣にプロポーズする者もいたが、希伊は頑(かたくな)に断った。それは何も言わずに立ち去った龍一への想いがいまだにどうしても断ち切れずにいたからだった。すでに結婚や子どもに対する偏った考えは雲散霧消していたが、結婚するならやはり龍一の名前しか浮かばなかった。奇しくも龍一も希伊も何年もの間、遠くに住まいながらも互いのことを想いつつ過ごしていたのだった。
希伊は生活に余裕が出てきたころ、いっそ上京して龍一を訪ねようと思った時期もあったが、不条理に蒸発してしまった自分に負い目を感じ、龍一なら笑って優しく迎えてくれるるに違いないことは理解していても、どうしてもそのハードルを越える勇気がなかった。更に龍一がすでに結婚しており、それを知った時の自分の絶望感が怖かった。絶望を払拭しハードルを越えるには、あまりにも時間が経ちすぎていたのだった。
ずっと龍一のことを胸の底に沈めて毎日を忙しく過ごしていたそんな時、今日突然龍一が目の前に現れたのだった。

ふうっとため息をつき希伊の独白が終わった。
龍一の話と希伊の独白を混合して撹拌されたとき、二人の心の間には目に見えぬ無数の信号が行き交い、言葉にせずとも共通の認識を持ったことに同時に気づいた
「あの雨の晩結婚を申し込んだよね。今、もう一度繰り返すよ」
龍一は希伊の瞳の奥をしっかりと見据えて言った。
「一緒になろう」

...............
小説「月に雨降る」は、次回が最終回です。

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2 件のコメント:

  1. テッシーさん、ご無沙汰です。最終回楽しみですが、何だか寂しい思いもします。

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  2. 匿名さん コメントありがとうございます。

    ずっと読んで下さった方だろうとお見受けしました。
    今までありがとうございます。
    小説の落としどころはずっと悩んでましたが、まあ、次回をご覧下さい。
    まだ書き足りないような気もするのですが、これ以上は冗長になってしまうので。

    今後ともよろしくお願い致します。(^-^)/

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