2018年9月21日金曜日

上出来な人生

※今日の朝日新聞「天声人語」から抜粋。(2018.09.20)
「1950年代、ロマンスグレーという言葉が使われ始めたときには、ちょっとした衝撃だったらしい。白髪の中年男のイメージを変えたからだ。そのころ仏文学者の平野威馬雄さんが試みた定義は、なかなか力がこもっている▼「男性で、中年以後、こめかみに白髪を交え、そこはかとなく青春の名残りをとどめ、あくのぬけた、適当に色気をのこせる貌(かお)」

この際いさぎよく、男らしく、きっぱりと、しっかりと、ちゃんと認めようではないか。
筆者今年、とうとう還暦を迎えたのだった。五月の末に60歳になった。1958年山形で生まれた。

男女問わず自分の年齢を認めることは、年を重ねるごとに拒否反応が強くなる。「俺はまだまだ若いぞ」と。そのくせ己のココロの中では体の中の、あちこちのネジやボルトナットが緩み、ゼンマイが錆びついてきているのを誰よりも自覚しているくせに。少しでもジジイ臭さやオッサン臭を払拭するために、このブログ内では4人いる孫のことをマーゴと言い、じいじとかおじいちゃんとか呼ばれるのが大嫌いで、マーゴにはカッコよくジジイの頭文字「J」を取ってジェイと呼ばせているわけで。だから人生の大きな節目と世間では言われている還暦はあえて「キャンリキ」...Can力...チカラが出せる...と表記したい。...と思ったがもう正直言うとフツーに「カンレキ」でも良いか。

子供の頃は60歳と言えば、白髪で腰が曲がって杖をついた老人のことだと思っていた。事実昔の当時はそれに近いものであったと思う。現代はどーか。全然若いじゃないか。あの郷ひろみだって60越えているんである。まあ、彼はかなり稀有(けう)な例ではあるけれど。筆者だってジャケットプレイくらいならできそうだが、グランドのダイヤモンドを全力疾走したら、本塁にたどり着くまでに酸欠で死んでしまうに違いない。40過ぎにフレンズのOBコーチになった時は、外野フライをダイビングキャッチしたり、ホームランを有小のプールへ叩き込んだり、夏の木更津合宿ではセカンドへスライディングしたり、マメができるほど長時間ノックしたり、子供と一緒に地べたを駆け回っていた...今は昔、懐かしいものである。

いざ自分がカンレキを迎えてみるとつくずく思うことがある。
代表Yanagisawaさんが60の頃はまるで40歳くらいのバイタリティーでガンガン少年野球の指導をしていた。何百本ものノックを平気で打ち込んでいた。今でもそうだから驚きである。顧問Kanedaさんは定年の60になってからフレンズへ来始めたけれど、当時夏休みには炎天下子供たちの平日練習のコーチを一人でやって、バッティングピッチャーを延々と何百球も投げ込んでいたんである。二人の当時の60歳の年齢に自分もやっと達した。比較して我が身の日和見(ひよりみ)的なテイタラクに愕然とする今日この頃である。

カンレキを迎える気持ちってどんなものだろうとずっと思っていた。子供の頃は自分が60になるなんて考えもしなかったけれど。ましてや長年少年野球に関わることや、少年野球ブロガーになることなどもっての外である。将来迎えるであろうカンレキの姿は40、50過ぎから考えるようになった。フツーの会社員ならば定年退職を迎える歳だ。女子社員から花束をもらって担当部署の部下たちから拍手を受けながら笑顔で会社を辞し、玄関を出ておもむろに後ろを振り返り、会社の建物を見上げてため息をひとつついて感慨に耽る...なんて、ドラマみたいに。筆者は今年の誕生日は夜まで仕事をしていて、それと気が付いたのは一日の終わりの頃であった。実にあっけなくカンレキの日が終わってしまったのだった。ちょっぴり淋しかった。更に今年は個人的なトラブルを抱えて、申し訳ない深謝の念から反転して、怒りに狂って幾晩も朝まで眠れない日々を過ごしていたから余計であった。今にして思えばそんな些事も受け入れられないのは、百歩いや、一万歩譲って、私の器の小ささなのだろうかと思う。

年齢を受け入れることが年齢を重ねた者の宿命なのだろうと思う。
定年後潤沢な退職金をもらい第二の人生が順風満帆で、老後の(ローゴ、あ〜イヤな言葉だ)人生設計がバラ色に満ちている人には理解できないだろう。しかし筆者はその対極にいる者として開き直ることにした。「今を生きる」しかないと。

ちょっぴり自虐的にカミングアウトしてしまった感は否めない。いつもはこのブログ、子どもやオトナの写真を掲載している。自分の写真はあえて載せないわけではない。試合などではカメラマンなので必然的に自分の写真が手元に無いだけで。別に故意に自分の写真を掲載しないわけではないんである。過去に何度か我が身の老醜を晒したことがあるけれど、ここはひとつ更に追加しようと思う。だいたいブロガーはSNS的弊害を怖れて自分の写真は載せないものだ。政治家やタレントは顔と名前が売れてナンボだから例外だけれど。今回は普段勝手に写真を載せている罪滅ぼしと公平性を保つためにも掲載しようと思う。カンレキの記念に。

高校3年生のころ上京を間近に控え、東京のデザイン学校に提出する履歴書か申込書に貼った写真である。街の写真館で撮ったと思う。今のような自動インスタント写真BOXはなく当時は皆専門家に撮ってもらっていた。確かそうだった。これは撮影の数日前の冬、筆者を含めた高校の悪ガキどもがとある家に集合し、深夜まで飲み皆で上京したあとの夢を語っていた。ウィスキーのロックはこうして飲むんだ、ということを同級生に教えられて調子に乗ってしまい、人生初めて二日酔いというものを経験した。その子の家はパーマ屋だった。翌朝彼は筆者が東京へ行くお祝いにタダでパーマをかけてやると言い出し、無理やり店の椅子に座らせた。母子家庭でお母さんがプロのパーマ屋さんだったが、筆者の頭をいじったのは同級生のその彼である。
当時は西城秀樹をはじめ新御三家と、山口百恵などの中三トリオが高校生になってアイドル全盛期だった。ちなみに山口百恵と筆者は同い年である。ってことは百恵ちゃんや桜田淳子も60である。「俺に任せろ」とヤツは言い、ド素人ながら西城秀樹や野口五郎的髪型をイメージしたようだった。筆者のみならずバンカラな当時の高校生はみな長髪だったのが幸いした。思い切りクリンクリンにされてしまったのだった。まるでガッチャマンのようになった。
数日後履歴書用の写真を撮ったのがこれ。今となっては信じられないほどの髪のボリューム。実に笑えるではないか。

そして今である。2年くらい前に仕事部屋にて遊びでスマホで自撮りした写真がこれ。58歳くらいか。あるカメラアプリをiPhoneに取り込んだ時に試しに自撮りしたものだ。わざとモノクロで撮った。18歳から60歳。人ってこんなに変貌を遂げるものだろうか。まるでスペースシャトルのピカピカの打ち上げ前と、地球に帰還したあとの大気圏で焼け焦げたボロボロの同機の比較みたいだ。上と下を比較されたし。とても同一人物とは思えない。実に笑えるではないか。

「男性で、中年以後、こめかみに白髪を交え、そこはかとなく青春の名残りをとどめ、あくのぬけた、適当に色気をのこせる貌(かお)」
頭髪は渋いロマンスグレーとは程遠いけれど、気分的には、
「...そこはかとなく青春の名残りをとどめ、あくのぬけた、適当に色気をのこせる貌(かお)」
であれば本望である。そうなりたいものだ。しかしこれを見るに、
「青春の名残は微塵もなく、アクは浮いたまま、色気と髪の毛だけは抜けてしまった貌(顔)」になったのだろうか。
......
7月に山形から同窓会の案内の往復葉書が届いた。
今度の週末の日曜月曜は山形の中学同窓会に行く。十数年ぶりに還暦記念の学年大同窓会を開催するのだそうだ。
筆者は頭髪の枯れ具合には他の追随を許さぬ自信があるが、自分よりも色気を残せた貌を保持してる野郎どもは何人いるのだろうか。
楽しみである。
......
樹木希林さんが最後の言葉に「上出来な人生でした」との言葉を遺したと知った時、感動したんである。いかにもセンス溢れる抑制の効いた素敵な言葉だ。自分も上級ではなくても上質で上出来な人生になればしめたものである。
今回は還暦の記念に己の恥を晒したブログでした。
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