2018年9月30日日曜日

望郷を胸に「心の旅」

※最初にお断り。今回ブログは特殊である。少年野球「晴耕雨読」のいつもの読者なら途中で飽きて投げ出すこと必至。少年野球の話は1ミリも出てこない。椎名誠の「パタゴニア」みたいに、極私的私小説風か。同窓会ブログという枠を越えて、大げさに言えば筆者の紀行文エッセーみたいな、あるいは「心の旅」的な長文です。普段のブログの3,4回分は書いている。それでも良ければ心されたしなんである。
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以前から何度か書いたように先週日曜は山形へ帰郷したのだった。山形市立第一中学校卒業生の還暦記念、大同窓会なんである。

筆者は随分昔に両親ともに亡くしているので、郷里に帰ることは滅多になくなった。兄妹は多いのだが山形にいるのは姉の家族のみである。それでも何度か機会を得て帰郷すると、まずその変貌ぶりに驚かされるものだ。自分の脳裏に刻まれた過去の記憶と、目の前の現実の光景との落差に少なからずギャップを感じてしまうのは、同じ地方出身者なら誰しも経験あることであろう。地元で生まれ育ちそのまま社会人となった人には、なかなか理解できないかもしれない。

新幹線を降り立ち駅前ロータリーに出てみると...。
「人がいない」
ちょっぴり唖然としちゃったのだった。駅前は意外と人がいなくて、繁華街に行けば往来があるのは地方都市にありがちな現象である。山形もそのご多聞にもれないのは以前から理解していたが、それにしても県庁所在地の山形市の玄関口である駅前は、予想以上に人もクルマも少ないのであった。道路は拡幅されきれいに舗装されていたが「大丈夫か?俺のふるさと山形」と、心で叫んでしまったのであった。
それでも自分を生み育ててくれた郷里は、大きな懐で「お帰り」と、温かく迎えてくれているような気がしたのだった。

駅ビルからロータリーをまたぐペデストリアンデッキから一望すれば、懐かしい想いが蘇る。小学生の頃親に往復のバス代をもらって一人で霞城公園体育館の剣道教室に通っていた短い時期があった。駅から山形城跡のある体育館まで歩いた。帰りにどうしても腹が減り駅前の角の小さな中華料理屋でラーメンを食べる。バス代を使い果たしてしまう。子供の足で2,30分はかかったであろうか、北国の真冬に歩いて家まで帰った。それを何度か繰り返した記憶がある。今にして思えばとんでもない不良小学生ではないか。現代なら中高生あたりがやる所業だが、50年前の筆者は平気でそれを体現していたのだった。
「確かあの辺の角にあったはずだが」と、そのラーメン屋があったであろう方角を見ても確認はできなかった。

ホテルへチェックインし一服して徒歩で七日町へ。同窓会までまだ時間はある。ここは市内屈指の繁華街。それは今でも変わらないみたいで、さすがに人の往来もたくさんあったので少し安心しちゃったんである。でも渋谷のスクランブル交差点を何千回も往復してきた者にはやはり、少し気が抜けた炭酸水を飲んだような気分であった。子供の頃ここらを徘徊していた時はもっと活気に満ちていたように思うのは、逆に筆者が幼かったからかもしれない。
旧県庁舎まで行きたかったが手前で断念。ここに来たかった。高校くらいの時によく通っていた喫茶店がある。確か店名は「喫茶ポール」だったような。隅っこで一人で本を読みふけったり(たぶん五木寛之か大江健三郎あたり)、または何人かの悪友たちと煙草を吸ったりして(たぶんハイライトかショートホープあたり)無為な青春時代を過ごした場所だった。高校時代はサッカー部を辞めてバイクを乗り回し、中途半端なワルを気取ったガキだった。本格的な不良になるには小心者過ぎて、高1の頃の優等生に戻るには時が経ち過ぎていたのだった。
今はもうその喫茶店はなかった。

こっちはあるある今でも。七日町の中心にあるのが八文字屋という本と文具の老舗である。ここもよく通ったもので、当時と売り場構成は変わってないようで懐かしい。これも高校三年の冬だったけれど、免許取りたての筆者はレンタカーを借りて雪の積もった裏の駐車場へ来たことがあった。ホンダの初代シビックだったと思う。当然オートマなんてなくマニュアル車、慣れないクルマの運転、しかも雪道。ギアをローに入れてアクセルを踏むものの、ガリガリ異音がしてなかなか前に進まない。10メートルくらいでやっと気がついた。サイドブレーキが思いきり入ったまま走ったのだった。思いきり大馬鹿野郎であった。

さてやっと同窓会である。30代の頃にあったクラス会には出たけれど、その後40代になって二度同窓会があったが筆者は出ていない。だからクラスの連中に会うのは約20数年ぶりということになる。40代の時の同窓会も行きたかったけれど当時の筆者は「時間がない、金がない、精神的余裕がない」の「同窓会行けない三大要素」に縛られて行けなかった。今でもこの三大要素に日々苛まれているけれど、還暦記念ともなれば、この先いつまた開催されるか不透明なので万難を排して行くことにしたのだった。とにかく懐かしい当時の面々に会いたいという強い思いが背中を押したのだった。

1クラス約40名、全9クラス、つまりは1学年で360人ほどの大所帯だった。今の少子化社会では珍しいと思うが、当時は当たり前だった。同窓会はそのうちの60歳になって120名の参加なんである。実に立派である。何が立派なのかわからないけれど。1年から3年までクラス替えがなくずっと同じ級友と過ごした特異な時期で、それだけにこの時代のクラス単位の結束と絆はとても強いと自負する。
会場のホテルへ行くとロビーは大賑わいであった。筆者は何人もの奴らと握手したりハグしたり。
「おお〜〇〇じゃないか!」
「おお〜Makabeかあ!」なんて。※筆者Teshimaは旧姓は真壁という。
お祓いをやって全員の集合写真を撮影し、会が始まった。
当時の先生はお二人だけ参加された。70代半ば、Yamakawa先生とTakeda先生。全員驚愕したのは我々よりもよほど若々しく矍鑠(かくしゃく)としている姿だった。もっと老人然としたものを想像していたのだが、超人的な若さだった。Yamakawa先生は中学サッカー部の顧問でもあった。

筆者のクラス9組の懐かしい連中。40名中ほぼ半分の19名の参加は他のクラスと最多参加同率首位であった。ありがたいことに胸につけた名札は旧姓で表記されている。筆者も含めて遠方からはほんの数名、ほとんどが地元で家庭を築き幸せそうに暮らしているようだった。頭が綿アメのように白くなった者、頭頂部だけ寂しくなった者(筆者含む)、全く黒々として全然変わらない者、そしていっそ全部スッキリして剃髪(ていはつ)しツルピカハゲ丸君にしちゃってる者など三者三様、十人十色である。女子(?)も皆元気そうで昔話に花が咲き、百花繚乱入り乱れ、さながらジーサンズとバーサンズの合コン状態。しかし60という認識に至るには程遠いほど皆、当時の若かった15歳の中学生に戻って大いに盛り上がったのだった。
※写真はヤツらに無断で掲載しちゃう。ブログに書くことは一部宣言済み。

酒宴も進むとクラスの同級生だけではなく、高校でサッカー部で一緒になった奴や、小学生の頃同じクラスだった者、住んでいた近所の幼馴染みの連中もやって来たり。中には顔を見ても思い出せず名前を訊いてハッとすることもしばしばなのだが、向こうは知っているものと思いグイグイ話こんでくるわけで。話を合わせているうちに突然昔の光景が蘇り、頭の中の霧が晴れて晴天の空を見上げるような気分だった。
同級生とはまるで昨日別れて今日再会したように、瞬時にタメぐちでお互い呼び捨てになっちゃう。それがまた嬉しいのだった。先日のブログに「60にしてそこはかとない色気を保持している男」はいるかと書いたけれど、いたんである。バスケ部で超モテ男だった「じ君」。Kohji君だったので皆から「じくん」と呼ばれていた。今は洋菓子店を経営していて幸せな歳の取り方を歩んで来たようだった。モデル級の美人の奥さんがいるというのは昔から聞いていた。。どーよ、まるで40歳後半と言っても過言ではあるまい。奇跡の60歳である。イケメンは歳を取ってもやはり渡辺謙似のイケメンなんであった。掛けているのはハズキルーペじゃないけれど。隣のMakabe君はもはや竹野内豊の片鱗はどこにもなく、髪の毛とともに雲散霧消したのだった。

クラスの男子の中心メンバーはNaoto、Keiちゃん、Kawamuraだった。それぞれ銀行の役員になったり、山形警察の要職に就いたり、自営の会社の取締役だったり。
オトナになったナオト。柔道部だったヤツは貫禄十分の風貌は当時から変わらず、太平洋と日本海にまで聞こえるような大声と、豪快な笑い声でクラスの中心だった。
剣道部のKeiちゃんはKeiji。正義感が強く曲がった事が大嫌い、お父さんと同じ警察官になった。奥さんを随分前に亡くし再婚したのだが、びっくりしちゃうくらい若くて綺麗な奥さんをもらったのだそうだ。今でも超ラブラブなんである。筆者は当時からこの二人とは仲が良く、この度も女子の前でもあっけらかんと下ネタ(ここでは書けないくらいのストレートな)を連発しちゃうんである。
Kawamuraは家業を継いで会社役員になっていた。当時も今も物事を斜に構えて見る視点は健在で舌鋒鋭く、若い大学生の教習の女先生を泣かしてしまったこともある。同じサッカー部で、一緒に南高に進学してサッカーを続けた。中学サッカー部仲間の一人の訃報を聞いたのはショックだった。逆に今回サッカー部のエースストライカーだったあだ名「アベQ」こと、Abeに会えたことは嬉しかった。コーナーキックは筆者が蹴ることが多かったが、必ずアベQの頭に合わせて蹴っていた。ドンピシャのタイミングだとネットを突き破るような豪快なヘディングシュートが決まった。
他にも名前を挙げるとキリがないのでここでは割愛しちゃうけれど、何人ものクラスメイトの懐かしい野郎どもとまさしく旧交を温めたんである。

さて女子であった。「Makabeくん、久しぶり〜」なんであった。
彼女らも男子からはいまだに呼び捨てで。筆者も当時は呼び捨てで名前を読んでいたが、今日はなぜかちゃん付けになっちゃうのだった。あえてここでは女子たちの名前は挙げないけれど。みんなきれいに歳を重ねて素敵な笑顔を振りまいていた。しかしここでは書けないが、人知れずそれなりの苦労を重ねて今ここにいる人も少なからずいる。年輪を恥じることはない。村上春樹的に言えば、彼女たちの目尻に刻まれた皺でさえ、素敵で愛おしく思えるわけで。

斉藤和義「ずっと好きだった」
※出典:ネットのJ-リリックから。作詞作曲 斉藤和義

歌詞の内容は「同窓会あるある」なんである。当時からクラスの皆が知っていたことだ。筆者の想いは遂げられなかったけれど。幼かった自分の甘く切ない記憶。これ以上は書くまいて。
今にして思う。筆者が昨年一年がかりでここで書いた小説「月に雨降る」。文庫本に換算すれば長編小説の一歩手前くらいのボリュームのあの素人小説は、もしかしてその根底にあったのは当時の中学生の想いも重なっての事なのかもしれない。子供頃の想いと大人になってからの現実が輻輳しあって出来た小説だったのだろうか。
※宣伝するわけじゃないけれど、勢いで掲載。このブログ右側上にある「このブログ内を検索」欄に『小説「月に降る雨」1』、と入力コピペすればたぶん、何個目かに冒頭のトップページに飛ぶはずである。または下のURLから。
小説「月に降る雨」1
https://t-tessey9694.blogspot.com/2016/05/1.html


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ここまで書くのに今日土曜夕方から何時間要したであろうか。ブログを二回に分けて書くことも頭をかすめたけれど、このまま勢いで書いちゃうことにする。
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当然の二次会はクラス単位で。駅前でクラスの女子Ayaちゃんがやっているスナックがある。もう何年も続いているだけでも立派なものである。ほぼ全員なだれ込んだのだった。ここで女子が11人ほどのLINEグループを作ってくれた。名前は「3年9組」思い出話に花が咲き時間はいくらあっても足りないのだった。山形在住の野郎どもは年に数回飲み会をやっているとのことだが、筆者には何十年ぶりの再会なんである。
オトナのナオトがカラオケを入れた。筆者の記憶に間違いなければ中学卒業式の時に体育館で全員で歌った曲が当時流行っていたチューリップの「心の旅」。「♪ああ〜だから今夜だけはキミを抱いていたい〜♪」のアレである。お茶目なナオトは早速替え歌にして即興の下ネタソングに書き換える。

キュルリとあの頃へ戻ったかと思えば、現実はあっという間に時は過ぎていった。
先の斉藤和義の歌のサビ部分。
「今夜みんな帰ったら もう一杯どう? 二人だけで」
そんなくさいセリフすら言い出せず。

気がついたら三次会であった。彼女はもう帰ってしまった。男女6人、男はKeiちゃんと「Shidaちょ」。女はAya、Nori、Atsukoで駅前のバーで飲む。卒業後のあれこれの話を聞くのは楽しかった。高校進学後、ボタンの掛け違いで互いに感情的な軋轢があったのが、ここで心情を吐露して融解したり。実に濃密で楽しい時間を過ごせたのだった。因みに写真左下の「Shidaちょ」は決して安倍晋三ではない。常に気遣いのできる男、バドミントン部のShidaなんであった。

ホテルに戻るとバタンキューどころか、あらかじめ買ってあったビールに手を伸ばしぷしゅりとプルトップを開ければ、今日の出来事が走馬灯のように思い起こされてしばらくベッドに独り佇んでいたのだった。自問自答すると心の中のもう一人の俺が返事した。
「帰ってきて良かった」
.....
まだまだ続く冗長なブログ。ここからは駆け足にて。
翌朝は懐かしの街を巡ることにした。生家はもうない。今は駐車場になっている。小学生の頃学校へ通った通学路を途中まで辿ってみる。記憶の断片がいくつも立ち上がり、懐かしさで胸がいっぱいになる。高校は文武両道の山形南高だった。家から歩いて1分、瞬きを三回すれば学校に着く距離。故に筆者の家は当時悪ガキどもの巣窟となった。サッカーを辞めなければ良かったと思う反面、スピンオフしたからこそ貴重な青春時代を過ごせたと思う自分との葛藤がある。
グランドでは南高野球部が白熱の紅白戦をやっていた。グランドに懐かしさはない。筆者が卒業後して間もなく校舎が全面的に建て替えられて、当時の木造校舎の面影を見いだすことは不可能だからだ。

親父オフクロの墓参りに近所の墓地へ。隣の名取公園では若い夫婦と幼い子どもたちがレクレーションに興じていた。ベンチでiQosをくわえながらそんな若い家族たちを見ていると「捨てたもんじゃないぞ、山形」という思いに転じるのだった。俺は山形を捨てて上京したクチだ。郷里を去ったお前が今更何を言ってるんだと、目の前の千歳山が俺に問いかけているようだ。それでも柔らかに目を細めて柔和に俺を見下ろしてくれたような気がしたのだった。

山形市民なら誰でも知っている、その千歳山の麓まで足を伸ばした。高校サッカー部の時は何度もランニングで来た場所であり、小学生の頃はここのこんにゃく屋で兄貴に買ってもらった名物「山形玉こんにゃく」の味が忘れられない。当時はボロボロの家の軒先で醤油で真っ黒に煮詰めたこんにゃくを売っていた。あれが美味かった。今は店は立派になり味も当時より薄味になったように思ったけれど、今もここにあることが嬉しかった。

昨晩作った「3年9組」のグループLINEが互いの別れを惜しむように引っ切りなしに鳴っていた。
駅前にUターンしてフレンズとQueensにお土産を買い込み、時間ギリギリに帰りの新幹線に飛び乗った。もちろんビールのロング缶も忘れずに。

渋谷駅のホームに降り立ち勝手知ったる雑踏に身を任せて流れ行く。
こうしていつもの日常に戻ったのだった。竹内まりやの「駅」みたいに。

もっと書きたいことはあるけれど、もうこの辺にて筆を置く。帰宅して一週間は村上春樹の「ノルウェイの森」から帰った主人公のような気分だった。
10年近くブログを書いていてブログ執筆でこんなに長い時間Macに向かったことはない。今日土曜は雨がそぼ降る中バイクでフレンズ、Queensをハシゴして夕方から書き始めたけれど、途中食事や風呂を挟んで今はもう日付変わって午前2:30。

それでもまだ、望郷の念は尽きないのだった。
いつかまた逢おう。
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