2019年3月1日金曜日

蕗の薹と沈丁花

水曜日は雨模様の中新橋へ出向いたのだった。そう言えば昔Naotoと神保町で再会し、おでん屋で一杯やり、そのあと地下のバーで飲みなおし、深夜に外に出た時も雨だった。

なんちゃって、私小説風の出だしにて。既報の通り山形の同級生Naotoが仕事がらみで上京の機会を得て飲むことになったのだった。筆者と同じ神奈川には同級生のAitaもいて参加できることになり、新橋で待ち合わせることになったんである。いわば山形のジーサンズ3人のささやかな「山形39会東京支部」の発足なんであった。筆者は高校は山形南高という公立男子校で、毎年開催されるその南高同窓会東京支部会に一度だけ参加したことがあるが、それは数百人規模で自分よりも大先輩がひしめき合う超ジーサンズの壮大な会合である。それに比較すれば実に和やかで可愛い小さな、そして温かな時を過ごせる飲み会であった。いわゆる「旧交を温める」とはこのこと。と言っても昨年の9月以来の再会であったが。

西口SL前で待ち合わせ。渋谷で言えばハチ公前みたいなところだ。ニヤニヤしながら遠くからiPhoneを取り出しカシャリ。

ほどなくしてAitaも合流し堅く握手しまくるわけで。BS-TBS吉田類「酒場放浪紀」的居酒屋へ。新橋ガード下と言えば戦後復興の小説や映画の舞台にもなる、由緒正しき正統派ニッポンのオヤジの酒場が密集するエリアである。TVの街頭インタビューで酔っ払いサラリーマンが登場する、オッサンの聖地でもある。

かんぱーい!!
従業員の中国人の女の子にiPhoneを渡し撮ってもらう。

Naotoとは中学の時の親友であり、筆者が22で結婚した時は、唯一山形へ招待状を出した男である。確かあの時、中学同級生皆からの連名でお祝いに圧力鍋をもらった記憶がある。滅多に使わなくなったがアレは今でも持っている。(※記憶が違ったらごめんなさいなんである)
Naotoはこれである。

「大変失礼いたしました。ただいま不適切な間違った画像が放映されたようです。Naoto様はじめ関係各位様には大変申し訳なく存じます。訂正してお詫び申し上げます。さて、次のニュースですが...」
なんちゃってなんである。過日EU離脱問題で揺れている英国から、HONDAも撤退を表明したのは記憶に新しい。それに先んじて原発計画凍結を発表した某大手H社の社長ソックリなんである。(※著名人ゆえ勝手に写真を掲載するのはご法度と知りつつ。所有権、著作権、肖像権、知的財産権...に抵触するであろうことは認識するも、どーしても載せたかったんである)
左がNaoto、右Aitaなんである。

Naotoは某銀行役員となり悠々自適、順風満帆の人生を送っているようであった。Aitaは東京の複数の大学の講師や研究員を勤めるかたわら、IT関連のNPO法人を立ち上げており、毎週毎週日本全国津々浦々を飛び回っているんである。
奴らのバイタリティーを見てるうちに、自分も還暦を過ぎたからと言って隠に篭らず、バリバリやらねばだと元気をもらった反面、ちょっぴり羨ましいと思ったのは人としてのサガであろうか。
あらかじめ山形の39LINEにはこの日のライブ画像を配信することは予告してあったので、時事刻々アップすれば素早く山形からガンガン反応あり。

iPhoneに保存してある中3の卒業写真を肴にわいわいギュルギュル飲んじゃう。
「アイツどーしてるんだべ?」
「あの子は今どーなのよ?」
消息通のNaotoはほとんどの級友たちのその後を把握していて、意外にもAitaもその後の同級生のことを知っていたんであった。クラスで一番の秀才だったI君は京大へ行き、その後大学教授になり、今は東北の某大学にいるんだとか。
ごめんなさい、写真流出しちゃいます。本来ならばイケナイ行為なのは承知の上で。名簿とかの名前ではないのでお許しあれ。

人には人のそれぞれの人生がある。いびつな襞(ひだ)をもつ失敗作のミルフィーユのように、歳を重ねた分だけの、それぞれの人生の来し方があるのであった。楽しいことも悲しく辛い消息も聞きつつ、そんな感慨にふけってしまったのであった。本音で語り合える友との邂逅に感謝しつつ、夜は更けゆくんである。もし筆者があの頃に戻れるのであれば、土下座して謝りたい同級生が何人かいる。当時の自分の幼さが招いたもので、あの頃の俺を自らぶん殴ってやりたい、そんな忸怩たるほろ苦い想いも蘇る。

そのうち本音ついでにそこはそれ男の飲み会である。俺は誰が好きだっただの、いや俺はあの子はいがったなあだの、ちょっぴり下ネタも挟みつつ大盛り上がりなんであった。

そーこーしてると酔った勢いでNaotoは神奈川在住のある同級の女子に電話をかけ始めた。うわっ懐かしい、確かバレーボール部だったか?体育館のブルマ姿が蘇るわけで。Naotoならそれはひとしおであろう。ぐふふ。筆者もAitaも代わる代わる電話で話したのだった。それはたぶん45年ぶりの会話なんである。

「俺の言うことブログに書いてけろず」
なにやらNaotoが人生訓的な持論を展開したのであった。実に頷ける良い話である。例えて言うなら、「勝者の論理と敗者の弁明」。この山形ジジイ三人ともそれぞれの、それなりの人生で地獄をみて来つつ還暦を迎えたのだった。その最後には「蕗の薹と沈丁花」になぞらえて北国の春待ち遠しい思いを語ったのである。
おお、そーいえば店に入った途端にテーブルに広げたのは、Naotoがわざわざ山形で摘んでジップロックに包装してくれたフキノトウであった。
ほんのり春の香りとともに、筆者を北国の春に誘(いざな)ってくれたのであった。

時刻は終電間近。また39東京支部会やろーぜ、夏くらいには山形でまた39同級会やっからな、みたいな感じで別れたのであった。別れ際なんとAitaがスマホを一瞥して「うわ、霞ヶ関から来てくれとお呼びがかかったから、今から行ってくるわ」と言って、新橋の夜に消えて行った。おいおいお前「Gメン75」かよ、と言って別れたのだった。

山手線の上野方面ホームまでNaotoを送った。大昔彼らが東京の大学生だった頃、Koyamaのケイちゃんたちに大宮(?)のホームで恐怖の「バタフライ」をされて見送られた記憶が蘇り、今度は俺が見送ってやる番であった。21、2くらいだったろうか「近く、俺、結婚するんだ」と言う筆者を、東京へ帰る大宮の閑散とした夜のホームで、数人の同級生がバンザイバンザイと怖くて嬉しい逆胴上げしてくれたんである。(※細かい記憶には間違いあるかもしれないが)

元気でな、山形の皆によろしく哀愁。
逢えない時間が愛を育てるのさ、ってわけで。

....。

筆者は山手線で渋谷で乗り換え、田園都市線で一路鷺沼へ。
改札を抜ければほんの少し春めいた暖かい雨が頭上に降り注いでいた。
「トンネルを抜ければそこは雪国だった」とは逆に、「改札を抜ければそこは春雨だった」みたいな。
なんだか気持ちよく、そぼ降る雨に濡れながら帰路についたのだった。
まるであの時の神保町の旧友との再会のように。
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