2023年7月2日日曜日

笑顔でサヨナラを

 今年の2月3日に珍しい人から電話があった。かつて仕事関係でお世話になったIさんからだった。今は原宿で店舗の設計施工会社の会長となって、71歳ながらまだ頑張っているはずだ。久しぶりの電話で仕事の依頼だろうかと少し訝(いぶか)しがった。

「Teshimaさん久しぶり....」簡単に挨拶を交わすと妙な間があったのち、切り出された。

「Fukuちゃんがさ、昨日の晩、....亡くなったんだ」

私は絶句して膝から崩れ落ちた。

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私が初めて社会人となって勤めた会社は、池尻大橋にあった店舗の設計施工の中小企業で、そこのデザイン部に所属していた。20代前半の頃当時東急が109を新築で建築していた頃だったと記憶する。そこの地下に様々な業者の狭い詰所があり、そこへ駆け出しの私が図面を届ける役目をおおせつかったのだった。当時はパソコン、スマホはもちろんのこと、まだFAXすら採用していた企業は少なかった。手描きの図面は持って行って打合するのが当たり前な時代だ。その詰所で他の会社から出向で来ていたのが、IさんとFさんのコンビであった。二人とも広島の同級生で上京しこの業界へ。屈託のない笑顔で挨拶してきたのがFさん、その人との初めての出会いだった。

その後二人は共同経営者として内装工事の会社を立ち上げ、私の会社ともずっと長いお付き合いが始まる。Fさんは直感的に行動を起こす人で、Iさんは理知的で冷静な判断ができる人。その絶妙なバランスが会社を大きくした。小さな事務所からスタートし、今では原宿に自社ビルを構えるほどになった。私の6歳年上の彼らはバイタリティーに満ちて、Fさんは年下や業者にも面倒見が良く、仕事を離れても公私共に相談に乗ってくれた。仕事には厳しかったが、反面誰にでも優しく、困った人を見捨てておけない、損得勘定抜きで行動し、それでいて自分には無頓着でだらしないところもあり、誰からも愛される、そんなFさんだった。タバコをバンバン吸いながら打合するのが当たり前の時代、彼のポケットにはいつも、打合をした他人の誰かの100円ライターが入っていた。

私は20代30代の会社員のころも、39歳で恵比寿にデザイン事務所を立ち上げてからも、ずっとFさんとは細く長いお付き合いがあった。彼は40代の頃世田谷の巨大少年野球チームの監督をやり、50代には熟年離婚を経験し、それでもいつも笑顔を絶やさない人。一昨年だったか、恵比寿で打合の帰りに一杯やろうとなって、初めてFさんに胸の内を話した。それまで恥ずかしくて面と向かって言えなかったことだ。

「自分は壁にぶち当たった時、Fさんならどう対応するだろうか?と、いつもFさんを心の手本にしてきたんです。大きな背中を見てきて兄貴みたいな存在なんですよ。でも根本の性格が違うからFさんみたいに豪快にはできませんけど」酒の勢いを借りて歯の浮くような恥ずかしいセリフを言ってのけたのだった。対してFさんはちょっとはにかみながら笑っていた。その時Fさんはすでに起業した会社を退職しフリーになって私と同じ設計の仕事をやっていて、彼の仕事のことも、独り身になってからのプライベートな話もたくさんしてくれた。私もつい、抱えていた大きな心の傷も打ち明けたのだった。そんなふうに自分を曝け出したくなるような、大きな懐を持った人だった。

昨日まで全く元気だった人が突然目の前に暗幕が降り、否応なく人生の終末を迎える。明日もこのステージに立つことが当然だと思っていたら、自分の意思に反してその日がラストステージになってしまう。どうして惜しまれる人ってこうも突然、日常のステージから忽然といなくなってしまうのだろうか。

急性の心臓系疾患だったらしい。葬儀は縁者だけで広島で執り行なわれた。私は東京に墓所があればいつか訪ねて彼に会いに行く決心をしていた。共同経営者だった電話をくれたIさんに、そろそろ連絡してみようかと思っていた矢先、先月逆にIさんからSMSで渋谷で「偲ぶ会」をやるとの連絡があったのだった。

それが今日7月1日土曜の渋谷だった。怒涛の勢いで送られてくる連盟やフレンズのグループLINEを確認しつつ、渋谷へ向かったのだった。

エクセルホテル東急に参集したのは100数十名。元奥様や兄妹のお子さんたちと挨拶。献花、献杯。ほとんどが仕事関係つながりの、私と同年代か70代の関係者だった。お世話になったのは私だけではなかったことを今更ながら思い知る。むしろ私より太く濃密な付き合いだった多くの人たちがいた。皆彼を慕って参集した人ばかりであった。私も何十年振りかで昔の会社の先輩に会ったり、共通の仕事関係者と談笑したりと時間は過ぎる。サザンが好きだったFさん、会場で息子さんが管楽器で「蛍」を演奏。私は涙腺が弱いのは自認しているが、関係者のスピーチに瞼を熱くし、時を経て皆で笑ってはまた涙腺が緩む。Fさんにお別れの挨拶が出来て、自分なりのケジメが付いて良かった。最後にあの世でまた飲もうねFさん、と、遺影の大きな笑顔に向かって心で伝えてホテルを出た。

お開きとなったのはもうすぐ夕刻が近づくころ。立食だったので渋谷に早めに着いてからほぼ3,4時間立ちっぱなしで、さすがに足が疲れた。けれど、このまま渋谷の雑踏に揉まれて電車に詰め込まれるのは、なんか気分的に避けたかった。今やっている仕事の関係もあり、いっそ松濤まで歩いてみようと思った。足を棒のようにして松濤公園にたどり着く。途中外国人観光客の多さにはもう慣れた。東京では相当前から公園内は禁煙なのは認識していた。アイコスの代わりにブラックの缶コーヒーを手に、静かにベンチで佇む。ずっと悶々としていた気持ちに、一区切りがついて気分が平(たい)らかになってゆく気がしたのだった。

帰宅後、AmazonMusicでセカオワのオリジナルプレイリストを聴いて、ふと思い立ち今日のサザンの「蛍」を聴いた。

涙は見せたけど(涙見せぬように)

笑顔でサヨナラを

また逢うと約束をしたね

...そんな1日だった。

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2 件のコメント:

  1. こんにちは。Fの長女です😊
    ブログをIさんに伺って拝見いたしました。
    一瞬で終わってしまったあの日のことをこうしてブログに残していただけたことが光栄で喜びに心も和んでいます。ありがとうございます。
    また思い出してやってください。

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  2. Fさんのご長女さま
    先日は逆にIさんを通じてお声がけいただきありがとうございました。まだブログには書ききれない想い出がたくさんあります。会場写真の掲載も考えたのですが、さすがにそれは失礼かと思いとどまりました。
    最後に娘さんにご挨拶が出来ずに失礼しました。
    また折に触れてFさんを想い出しながら、酒を飲みたいなと思ってます(^-^)

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