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2017年4月27日木曜日

小説「月に雨降る」39

「恭子、今日の八時に渋谷のあのスペインバルで会えないか」
耳元でちいさく囁かれた恭子は少し驚いた。
恭子も小声で返した。
「どうしたのリュウさん。そんなに改まってさ」
ランチから戻ったばかりの設計室は人はまばらだった。渋谷の店とは、駅から代官山方面へ少し入ったところにある飲食ビルの五階の個室がある店だった。一度だけ二人で行ったことがあった。普段ならデートの時は、仕事が早めに終わりそうな日に、どちらからともなくスマホのLINEで連絡を入れるのが普通だった。直接社内で言うことはめったにない。恭子の怪訝な反応に多少狼狽しながら龍一は言った。
「あ、うん、まあね」
「いいわよ、私は。八時ね」
「うん、今日は俺、心斎橋の実施設計の打合が終わるのが七時半くらいかな。たぶんその時間には行けると思うから」
ここ数ヶ月龍一の様子に異変を感じ取っていた恭子は、眉根に皺をよせながらデスクのパソコンに向き直った。龍一と恭子の仲はいわゆる社内恋愛だ。そういうものはややもするとすぐバレてしまうものだったが、龍一の考えでつき合った当初から社内では絶対分からないようにしようと恭子には言ってあったし、また、恭子も女子の同僚や周囲などにも一切悟られないように気を遣っていた。設計の部署では二人は普通に仲のいい上司と部下の関係に見えているはずだった。

店に着くとすでに恭子は小さな個室で待っていた。ビールのジョッキはまだ四分の一ほどしか減っておらず、恭子も来て間もないことを龍一に知らしめた。
「ああ腹減った。ビールと何頼もうかな。前回食べたあれ、うまかったよな。なんだっけ」
「まぐろとアボカドのカルパッチョでしょ、スペインなのにイタリア料理。もう頼んであるし。たぶんリュウさん頼むだろうと思ってね。それとあとでアヒージョもね。リュウさん大好きだもんね」
「おう。それと最後はパエリアだね」
付き合いが長くなればなるほど、互いのことは以心伝心だった。龍一も恭子の服装の好みや、嬉しいときの笑顔は必ず片目をつぶってみせる癖など、よく知っていた。龍一は心から恭子のことを愛おしいと思っていた。しかし付き合いの長さが、むしろ相手を苦しめることになることも大人になった今では分かる。
小さな個室は龍一の思惑で取ってあった。他の客に聞かれたくない話をしなければならなかった。しばらく他愛無い話をして、ビールからワインに切り替えて二度目の乾杯をした時だった。龍一が切り出すよりも先に、恭子がグラスを置いて神妙な面持ちで言った。
「リュウさん。何か私に言いたいことがあるんじゃないの」
「えっ」
図星だった。彼女なりに薄々何かを感じ取っていたのだろうか。やはり以心伝心だった。良くも悪くも。
「なんで分かったの」
「最近のリュウさんを見れば分かるわよ。これだけの付き合いだもの。今日なんかいつもだったらこんな高いお店なんか来ないし。しかもその話の内容は、たぶん...」
たぶんと言ったきり恭子は黙りこくってしまい、下を向いて固まってしまったように見えた。
「恭子。ごめん」
ゆっくり顔を上げた彼女はまっすぐ龍一の目を見据えた。
「ごめんって、何?はっきり言ってもらったほうがいいわ。このところずっと、毎晩眠れなくて、リュウさん変だから。私と話をしていても私の後ろにいる他の誰かに向かってしゃべっているみたいで。心ここにあらずって感じで。私はね、このままずっとリュウさんとは、ずっと...ずっと...このままでいたいと」
恭子の目からみるみるうちに涙が溢れてきた。喉を振り絞るように言った。
「どうして?私じゃだめなの?」

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2017年3月2日木曜日

申告は深刻

困ったもんだなんである。このところの仕事の詰まり具合もさることながら、この時期は自営業者にとっては確定申告・青色申告の季節なんであって、3/15までに税務署に提出せにゃいかんのであった。

申告は深刻なんである。なぜか?
去年まではめっちゃ使いにくい申告用ソフトを駆使してやっていたんであるが、昨年Macを新しくして当然OSもバージョンアップして今に至るのだけれど、そのアプリケーションソフトがOSに追いつかず、ついに使用不能となってしまった。使いにくいソフトを新しいものに更新して購入するのも癪に障るわけで。ならばいっそ同じなけなしの金を支出するのならと、ネットで別のソフトを検索。それで見つかったのが「クラウドタイプ」のオンラインソフトなんであった。(Mac対応ソフトは実に少なく限定されている中で奇跡的に見つかった)

今まで使っていた古いソフトのやり方と若干違うので戸惑ってしまい、1時間も試行錯誤してると頭がこんがらがってしまうんである。元来こういう経理的な数字にはめっちゃ疎いわけで。単純な「仕訳」を積み重ねていけば自動的に「貸借対照表」やら「総勘定元帳」やらが生成されるのだけれど、体質的に辟易するんである。会社で経理畑のセクションにいる人はまこと、尊敬するんであった。

それでもなんとか夜な夜な続けているうちに少しは慣れてきた。基本中の基本「貸し方」「借り方」はいまだに謎のままであるけれど。自営は本来の業務以外にこんなこともやらにゃあいけないのである。がっぽり儲かっていれば税理士に頼むのだろうけれど。ただ、最後の数字がピタリと整合性を伴って合致すると、それはそれで達成感を味わうことが出来るのは楽しいものだけれど、「貸借対照表」の左右が合わないと阿鼻叫喚の地獄である。期限が迫っていると尚更だ。設計もある意味平面の世界で(2D)細かい数字を統御しながら、立体を(3D)構築する仕事なので、ちょっと似てるところはあるかもしれない。

という訳で、時間がなくて小説もこのところ筆を執っていない。佳境に入っており最後の場面もほぼ決めてあるのに、まだ迷いがあるんである。他に違う展開、ラストがあるんではないだろうかと、逡巡しちゃっているわけで。
余談ではある。今度の村上春樹の「騎士団長殺し」の序盤を読んで驚いた。
「最初に女がいなくなる」「月」「雨」など、「月に雨降る」とよく似たキーワードが出てくる。もちろんこれは筆者が村上春樹に心酔したがために、必然的に「月に雨降る」が似てしまったのかもしれない。断じて言うけれど筆者は村上春樹を一度も意識して書いたわけではなく、ましてや模倣したのでは全くないのだけれど、筆者の体の中に村上春樹的なナニかが染み付いてしまったがために、気がつけば結果的に似てしまっていることは否めないのかもしれない。
それで、「騎士団長殺し」の序盤のシーンが筆者の小説に通じるものがあってなんだか嬉しくもあり複雑でもあった。畏(おそ)れ多くも村上さんとあたかも同列的な記述をしている自分が怖い。決してそうではないのでハルキストのみなさんにはご理解いただきたい。

さて今度の日曜はいよいよ宮前春季大会の開幕なんである。
少々忙しくても開会式の全チーム紹介写真だけは撮りに行こうと思っている。このブログでは数年来の恒例になっているし、広報として宮前少年野球を盛り上げるためにもね。
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2017年2月22日水曜日

小説「月に雨降る」38

翌日の日曜日は娘の野球で車出しをして同じ区内の小学校へ遠征に出かけた。大事な試合だった。今日の試合に勝てば予選ブロックリーグを抜けて決勝トーナメントへ進めるはずだった。結果は五対四の惜敗。子らの何人かは泣いていたし、親たちも沈痛な面持ちだった。高知で野球をやっていたあの頃を思い出す。甲子園出場のかかった県大会準決勝の一戦。公立高校でベスト4まで登りつめたことは快挙だったし、親や学校関係者など周囲の期待も膨らむ一方だった。決勝まであと一勝は目前だった。九回裏2点リードしていたのだが、サードを守っていた龍一の凡ミスが引き金となってチームに四球やエラーが連鎖した。気がつくと相手チームのサヨナラの走者が本塁を踏む姿が恐ろしく遠くに見えた。やがて大粒の涙が球場の土を濡らしていった。サードベースが滲んでいた。巨大なすり鉢の中の、歓声とどよめきが龍一の嗚咽を飲み込んだ。
「俺のせいで負けた」
大人になってから時々あの試合を想い起こすたびに、分量を間違えたインスタントコーヒーのような苦い味がするのだった。しかし同時に何かかけがえのない経験をしたようにも思うのだった。勝って学習することよりも負けて学ぶことのほうが含蓄があるように感じたものだった。おかげで少々のことではへこたれず、精神的に強くなったように思った。社会人になって何度か挫折を味わい心が折れそうになってもどうにかここまで来れた。そのたびに打たれ強くなったが、しかし大人になることと引き換えに、少年のころの純真が失われてしまったのも現実のこととして甘受せざるを得なかった。チームの子どもたちを見ていると、あの頃の自分を想い起こし時々そう思う龍一だった。

その晩は監督コーチ、親父たち男だけで残念会という名のいつもの飲み会になった。最初の一時間は熱く野球を語っていた男たちは、酔いが回るにつれて仕事の話や世間話に移り、果ては母たちには聞かせられないような男ならではの軽い猥談にまで発展し、勢いでカラオケスナックまで繰り出した。みな明日は仕事だというのに夜更かしして飲んでしまう、そんなチームの男たちが龍一は大好きだった。店の女の子と大音量でデュエットしている親父を尻目に、そろそろ帰ろうと思った龍一だったが、チーム一の無口で無骨な父が隣に座り訊いてきた。大乗寺義満というおそろしく重厚長大な画数の多い名前だったが、チームの皆からはよっちゃんと親しみを込めて呼ばれていた。彼とは三個しか年齢が違わなかったが、龍一には敬語で接してくる男だった。息子や娘がまだ小さかったころ、龍一が仕事で遅くなった時は何度も子どもたちが彼の家庭で世話になっていた。美人の奥さんには今でも頭が上がらない。
「ところで神島さん、再婚しないんすか」
「なんだよ、よっちゃん、いきなり薮から棒に。ブッシュからスティックだぜ」龍一は笑った。
「もったいないじゃないですか。神島さん四十過ぎでしょ、まだ全然イケてますよ」
彼が経営する土建会社の経理部に三十二歳のバツイチ女性がいて、その彼女が絶対おすすめなのだそうだった。とても美人だし気だての良い女性で俺が保証しますと言ってきた。龍一はこの男のことを100%信頼していたので、彼がそこまで言うからには確かにそうなのだろうと思った。その気遣いが嬉しかった。
「ありがとう、よっちゃん。でも俺さ、今ね、同点の九回裏二死満塁で俺に打席が回ってきたんだよ。思い切ってバットを振りに行くつもりなんだ。クリーンヒットでサヨナラになるかボール球を強振して三振するかはわからない。悔いは残したくないからとにかく振りに行く。見逃し三振だけはしたくないんだ」
義満はきょとんと目を丸くして龍一を見た。
龍一独特の難しいジョークを言っていると思ったのか最初は笑っていたが、直感力の鋭い彼はやがて口をつぐみ、そして言った。
「わかりました。いや、てゆうか正直、言ってる意味よくわかりませんけど、俺に出来ることがあれば遠慮なく言って下さい」
龍一はまた「ありがとう」と言いかけたが途中から言葉にならず、無言で義満にハグした。丸くなった彼の目は今度は目を白黒させることになった。
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2017年2月15日水曜日

小説「月に雨降る」37

突然ずかずかと足音がしたかと思うと、のっそりとトイレに行く息子が見えた。すでに龍一の身長に肉薄するほど背が伸びた。用を足しトイレから出てくるともの凄い勢いで顔を洗いまた自分の部屋に駆け出して行く。
「おい、おまえ、今日の部活は」
「ん。だから今焦ってんじゃん。遅刻しそうだよ」
そう言うなり踵(きびす)を返してベランダに突進し、野球の白い練習着を取り込みそのままリビングで着替え始めた。
「あのなあ、もう少し計画的に起床出来ないもんかね。昨日何時に寝たんだよ。またスマホでネット見てたんだろ」
「親父に言われたくないよ。昨日酔っぱらって何時に帰ってきたのさ」
確かに。おまえの言うとおりだ。
「お父さんさ、最近なんか変じゃね」
それは俺が一番よく知ってるし。
「なんかさ、家に帰ってきてもじっと黙って空中の一点を見つめたりとか、深夜にトイレに起きてみたら、居間でウィスキーのグラスの中を覗き込んでぶつぶつ独りごと言ったりとかさ、なんか最近変だよ。なんかあったの」
驚いた。自分の知らぬ間に子どもは親を見る目が成長していたのだった。こんなに大人びた目線をいつのまに備えていたのだろうか。親が思っている以上にこの年頃の子どもは独自の世界を形成しつつあるのだと思い知った。そういえば自分の中学時代も一気に親離れをして野球と友だちと遊ぶことが世界の中心にあった。
「おまえ、よく見てるな。それはそうと部活から帰ったらちょっと話がある」
「はあ?進路のこと?面倒くせぇなあ」
そのあと息子は冷蔵庫から納豆を取り出しスチロールパックのままスプーンで搔き込むと、ローリングスのスポーツバッグを担いで家を飛び出した。その背中に龍一は声をかけた。
「おい、納豆食ったら歯磨いてから行けよ。女の子に嫌われるぞ」
「ん、女子なんて興味ねえし」
嘘つけ。このところ毎晩のように楽しげに女子と電話してるのを俺は知ってるぞ。
そんな時もサチコは玄関に行って、しっぽを自分の足に巻き付けて律儀に座って息子を見送った。サチコの世話は夜遅い龍一に替わり二人の子どもが面倒をみていたのだった。特に娘との仲は親密で、夜になるとサチコは掛け布団と敷き布団の僅かな隙間からするりと侵入してきて、娘の寝床へ潜り込み朝まで喉をぐるるぅぐるるぅと鳴らしながら過ごすのが常だった。

まだ小学生の娘に話すことは躊躇われたが中学生になった息子には今の自分のこと、希伊とのことを話しておこうと思った。その上で金沢へ行くことにしたのだった。その晩娘が自分の部屋に引っ込んでから、男同士でリビングで話し合った。自分の若い頃からの来し方、希伊との出会いと別れ、ほどなくして結婚しおまえたちが生まれ、そして離婚したことを。サチコを拾った顛末も漏らさず話した。気がつくと時計の針は午前零時を回っていた。長い話を聞き終えた息子がぼそりと言った。
「わかった」
息子は真顔になって続けた。

「俺、お父さんを応援するよ。金沢でもどこでも、世界の果てまでも行ってくればいいじゃん。話を聞いていて俺もその希伊さんという人に会ってみたいと思ったよ。だって俺の親父がそこまで惚れ込んだ女の人なんだもの」
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2017年2月6日月曜日

小説「月に雨降る」36

翌日の土曜日は遅くまで寝てしまった。昨晩黒坂と別れたあとバーMakiに行って、真壁相手に深夜まで飲んで軽い二日酔いだった。いつになく早いピッチの酒に真壁は何かを感じたようだったが、最後まで龍一の胸の内を詮索することはなかった。
昼近くになってから起きて歯を磨いていると、サチコがみゃあと鳴いて、ゆっくりと歩み寄り、龍一の足元を八の字を描くようにくるりと回ったあと、しっぽをふくらはぎにしゅるりと絡ませてきた。竹に絡む朝顔のつるみたいに。希伊が姿を消した朝、捨て猫として偶然拾い希伊の分身として飼ってきたのがサチコだった。あれから十五、六年。猫としてはとうに寿命を過ぎていたが、どうにか元気に生きていた。とは言えさすがに子猫の時のように家中を駆け回るようなことはなく、終日目をつぶり穏やかに寝ていることが多くなった。ご飯の時間になっても若い頃のようにまん丸な目をこれ以上開けないというほど見開いてねだることはもうなく、ゆっくりと少しだけ食べて多くを残し、そのまままたお気に入りの場所を探して丸くなって寝てしまうのが日常となった。人間も動物もものを食べなくなったら死期が近いことは知っている。緩やかに、しかし確実に彼女の人生の黄昏の時が近づいているのを龍一は感じずにはいられなかった。この子を失った時の自分が想像出来なかった。いや想像することをあえて避けようとしている自分がいる。思わず抱き上げて頰ずりをした。以前は命の存在感を伴った重みがあったのに、今は古いバスタオルを丸めたような軽さだった。
「まだまだ元気で生きてくれよ、なあサチコ」
独り言を言っていると背後から声がした。
「お父さん、早く洗面台空けてよお。今からデートなんだから」
「何っ、今なんつったおまえ。で、で、で、デートと抜かしおったか」
「そうだよ。ひーちゃんと美咲と三人で遊びに行くんだよ」
驚かしやがって。いくら時代が進んだとはいえ、小学生で男とデートはあるまいと分かっていても一瞬うろたえてしまった。今日は少年野球チームのグランドが取れずに、珍しく練習は休みだった。火曜日に連絡網のメールが来ていたのを思い出した。娘の所属するチームには他にひーちゃんと美咲という二人の女の子がいて三人とも大の仲良しだった。遊ぶといってもいつもマックでハンバーガーを食べたり、プリクラで写真を撮ったりと小学生らしく他愛のないものだった。以前酔った勢いで龍一もチームの父親同士でプリクラを撮ったことがあったが、娘が撮ってきたプリクラを見せてもらうと、当時と比べて日進月歩、撮影技術が劇的に進化していて、とてつもなく可愛く撮れることに驚いたものだった。目は異様に大きくリカちゃん人形のように、顔は皺が全くなく唇には口紅まで表現されている。これを「盛る」というのだそうだ。キャバクラ嬢が人間技とは思えないほどの化粧とヘアメイクを盛っているのはテレビなどで知ってはいたが、それと自分の娘の姿がだぶって見えた時、龍一はぶるぶると自分の妄想を打ち消した。最近のネットの調査では小学生の将来なりたい職業の上位に男子は「ユーチューバー」女子は「キャバクラ嬢」と載っていたのを知り、愕然としたものだ。全くもって妙な時代になったものだ。
「気をつけて行けよ」
どこに行く?誰と行く?何時頃帰る?遅れるときは必ず連絡入れろよ、と娘の安否を気遣うつもりがその実、自分を安心させるための方便であることに気づき、のど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。最近親父から小言を言われると露骨に嫌な顔をするようになった。そんな年頃なのだろうと龍一は思ってはいたが、しかし深読みすれば母親がいないせいなのかもしれないと思い直す。この子から母親を奪ったのは、俺と元嫁の大人の勝手な事情からだ。すまないと改めて思った。でもあのまま生活を続けていればいずれ家庭は崩壊していたに違いない。そうならずに済んだことは小学生の彼女にはまだ分かるまい。大人になってから理解してくれるだろう、たぶん。

龍一は財布からささやかな小遣いを渡し娘を送り出した。そんな時サチコも玄関まで行って娘を送り出すようにみゃあとひとこと鳴いて、またよろよろとリビングに戻って丸くなるのだった。
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2017年1月31日火曜日

小説「月に雨降る」35

黒坂の長い話を聞き終えると龍一は言った。
「それで私の名前と会社の番号を知っていたんですね」
「そうです」
「でもなぜ、今頃になって」
「長年探偵事務所をやっていた新宿のビルが老朽化で取り壊しになりましてね、まとまった金も入る予定で。いい機会だから年も年だし思い切って廃業して、鎌倉へ引っ越すことにしたんです。古民家を借りてのんびりやろうかなと。ゆくゆくは一階を改装してカフェにしようかとも考えてます。それで先日事務所の資料を整理していると、キャビネットの奥から今回のファイルが見つかりまして。希伊さんのことを神島さんにお伝えしようか迷いました。あれから相当な年月が経ってますから、興味がなく電話口で断られると思ってたんですが、希伊さんのことを思うとささやかな情報ですがお役に立てればと思いまして」
黒坂は誠実な人柄なのだろう。一見取っつきにくい風体ではあったが、やはり人を外見で判断してはいけないのだった。
「役に立つどころかとても貴重なお話でした。希伊は当時金沢にいたんですね」
あのあとすぐに金沢へ発ったのだろうか。身寄りのない彼女はそのあと何をどうして生きてきたのだろうか。
「はい。ただし物的証拠はありません。管理所のおばさんの話と私の類推ですので。でも伊達にこの年までこの稼業をやっていたわけではありませんよ。おそらく九割方間違いないと思います。ただ、現在も金沢にいるかどうかは分かりません」
「ありがとうございます」
龍一は自分でも驚くほどに舌が滑らかに回り始めた。
「わたし実はお恥ずかしい話ですが...」
龍一は初対面の相手であるにもかかわらず、今までの希伊との関係性や消息を絶ってからの自分のこと、結婚し離婚し、二人の子の父親であること、にもかかわらず最近どうしても希伊のことが頭から離れなくなってしまったことなどを吐露した。希伊とのことは学生時代からの親友でバーの店主真壁にだけは話したのだったが、今の自分の抱えている思いを誰かに話すことによって、自分の心の立ち位置を確認したかったのかもしれない。
逆に今度は聞き手に回った黒坂はじっと龍一の話を黙って聞いた。
「そこまで一人の女性に思いを寄せることが出来る相手がいるなんて、実に素晴らしいことですね。希伊さんも可愛い子だった。もっとも私は女子高生の頃の彼女しか知りませんが」
柔和な笑みを浮かべた黒坂に龍一は訊いた。
「黒坂さんは独身なんですか」
生活臭さが全くない印象だったのである程度は予想していたことだったが。
「ええ」と言ってひと呼吸おいてから黒坂は言った。
「若い頃一度結婚しました。男の子もできました。子どもが小学3年生の時に少年野球の遠征試合の帰り、妻の運転する車が事故にあってね。妻に過失はなかったんですが。予定では私が車出しをするはずだったんですが、急な仕事で出かけてしまい、免許取りたての妻が車を運転することになって。知らせを聞いて病院に駆けつけた時は、冷たい霊安室で妻も子どもも白い布がかぶせてありました。自分を責めました。来る日も来る日も。周囲からはおまえのせいじゃない、自分を責めることはないとさんざん言われましたが、私は聞く耳を持ちませんでした。以来、もう結婚など絶対するものかと」
龍一は言葉を失った。
「幸せを手に入れたことを数値にすると仮に百としますね。でもその幸せを失った時は百の何倍もの悲しみが襲うことになるんです。幸せが大きければ大きいほどその不幸せの倍数は正比例して膨れあがっていく。二倍にも五倍にも十倍にも。百の幸せの陰では千の不幸が舌なめずりをしてこちらをうかがっているんです。薄くてもろい壁の裏でね。わかりますか」
「はい。わかるような気がします」
「でもね、神島さん。私のように悲しみを怖れて幸せを諦める必要はありません。私は弱い人間でした。人には誰でも幸せを求める権利があります。同時に人には誰でも幸せを求める努力をすべきだと思います。幸せの権利。それを自ら放棄することは、つまらない人生を選んだことになります」
心が熱くなった。つまらない人生。自分の人生に欠けていたものが何だったのかを改めて知らされた。結果を怖れず金沢へ行こうと決意した。ここ数週間のあいだ頭の片隅に思い描いていたことだったが、黒坂が背中を押してくれた。しかし金沢へ行くにはひとつ大きなハードルを越えなければいけないと龍一は思っている。自分に対してけじめをつけなければ行ってはいけないとまで考えていた。それは恭子とのことだった。

鎌倉で店をやる時は是非自分に声をかけて欲しい、お礼に何か出来ることがあれば個人的に協力したいと黒坂に伝え、二人は席を立った。

喫茶店を出るとすっかり暗くなった恵比寿の夜空に、ナイフで切り取ったような下弦の白い月が凛と浮かんでいた。遠い記憶の中の雨が降りそそぐ月が、龍一の胸の中で間近に迫ってきた。
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2017年1月26日木曜日

小説「月に雨降る」34

富山に車で来ていた黒坂は、滑川から国道8号線と併行している北陸道を走り金沢東インターで降りた。郷土資料館や図書館へ立ち寄り、市役所や東京の仕事仲間など何本か電話をかけた。希伊の実の父母、氷室家の墓所を調べるためだった。滋賀に住む旧知の友人にも訊いてみた。通称トミケン、冨沢健司郎という男だった。彼は黒坂の三歳下の後輩で以前金沢にある会社に勤務していたことがあり、転勤で実家のある滋賀へ戻ったのだった。彼の話によると金沢市営の野田山墓地には、いくつか無縁仏の墓もあるとのことだった。それだけでは深夜の山奥で一軒家の灯を探すようなもので心もとなかったが、黒坂はとにかく行ってみることにした。型落ちのボルボステーションワゴンに乗り込みキーを回した。
そこは歴史の重みを感じるかなり古い墓地だった。管理所に行き「氷室」姓の墓はあるかと訊ねた。人の良さそうな中年の女の管理人が案内してくれた。裏ぶれた卒塔婆(そとば)の先にあったのは立派な墓石ではなく、角のとれた四角い石が佇立(ちょりつ)していたのだった。微かに「氷室家」とかろうじて読めるものだった。親類縁者がなくいつの頃からか供養する者がいなくなったため無縁仏となったのだろう。確信はなかったがこれが希伊が赤ん坊の時に死に別れた両親のものに違いないと思った。手を合わせる黒坂の背後から管理人がにこにこ話しかけた。
「どうしてここが氷室さんのものだとすぐに分かったか言うとですね、ここ数ヶ月、毎月決まった日に、小柄できれいなお嬢さんがここへやって来て手を合わす姿を見ていたんねんて。気になって声を掛けたらこちらの娘さんだとのことやったがやね。その時に娘さんが言ったんねんて。『どうかこれはこのままにしておいて下さい。私は今お金がないですが、いつかきっとちゃんとしたお墓を建てますので』って。真っすぐな目をした人で、ここらの訛りはなく標準語を話しててんて。それで印象に残っていたんねんて。意志の強そうなそれでいて可愛らしい女性でしたよ」
黒坂が探偵事務所で初めて希伊と会った時の初見と同じ印象だった。間違いない、希伊だった。黒坂は帰京したら自由が丘の永山家を訊ねようと思った。どうして今希伊が金沢にいるのか、個人的な興味と職業的な探究心からだった。

東京へ戻った黒坂は、当時希伊から調査依頼された資料をキャビネットの奥から引っ張り出し、数年ぶりでもう一度熟読した。永山剛の名前でネット検索すると外食産業を中心に幅広く事業展開する大企業の社長だった。そのことはもちろん当時も調べて知ってはいたが、希伊から依頼された当時から更に企業規模は拡大していた。週明けに奥沢にある永山の家を訪問した。インターホンで探偵事務所の者だということを告げると、家政婦に案内されて中へ通された。平日だったせいか主人の永山剛はおらず妻の永山奈津子が応対した。怜悧な面立ちにどこか暗い陰のある女だった。調査は済んでいたが会って話すのは初めてだった。娘さんからその生い立ちの調査を依頼されたこと、全てはすでに報告済みであること、従って自分は全てを知っていることなどを率直かつ手短に告げた。そしてこの訪問は仕事ではなく飽くまで個人的なものだということもつけ加えた。そこまで話したところで奈津子がやっと口を開いた。
「そういうことですか」
どういうことだ。黒坂は瞬時に「そういうこと」のふたつの意味を考えた。話を聞き終わって理解したという意味合いと、もうひとつには暗いニュアンスが含まれているように思えた。奈津子の次のひと言でそれが後者を意味するものと分かった。
「で、おいくら欲しいの」
金持ちの家の秘密をネタに強請(ゆす)りに来たしがない探偵と彼女の目には映ったらしい。儲からない商売だが俺はそこまで落ちぶれてはいない。あるいは世の中は全て何でも金で解決出来るという魔法を信じているような表情だった。
「誤解しないでいただきたい。私はまだ人としての矜持(きょうじ)は持っているつもりです。生きていくためには金が必要です。しかも出来れば今よりももっと多くの金があればとても素敵なことだ。それは否定しません。しかしそのために、金を得る代わりにハートを売るつもりは全くありませんので」
奈津子はそれでも表情は変わらなかった。金沢で希伊の消息を掴んだことは伏せておこうと判断した。長年の探偵業で、こんな時の知り得た情報の出し入れには慣れていた。個人的に希伊に会わせて欲しいという本来の意図を改めて言ったが、奈津子の硬い表情は変わらなかった。二十歳のころ家を出て一度だけ顔を見せたがそれきりだ。消息は知らぬ。細部の事情まで知っていて要求するものがないのなら、もう帰ってくれと言われた。辞去しようと立ち上がった時に、奈津子が「あっ」と小さく声を漏らした。
「あなた、まるであの男みたいだわね」

以前希伊と同棲していた若い男がここへ押し掛けてきたと言った。その男の名前は分かるかと訊ねると、奈津子は別室へ行って一枚の名刺を持って来た。黒坂は職業柄本能的にそれを手帳に書き留めた。その名刺には『T&D神島龍一』と印刷されていたのだった。

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2017年1月23日月曜日

球恋遊学

久々のオムニバス形式的日々雑感ブログなんである。

昨日土曜はQueens年間最大のイベント「卒部式」なんであった。全部載せられないと分かっているにもかかわらず、結局200枚超えの写真を撮ってしまうわけで、あとで公開出来ないのに後悔しちゃう。本日日曜はフレンズ午前のみで、午後帰宅後にQの写真から厳選70枚に絞り込んだものの、まだ多すぎて断腸の思いで更に削除し40数枚に絞り込む作業。ひと仕事終えるとここ1,2年の悪いクセで疲労感を覚えて集中力が続かない。ましてや風邪が長引いて寒気を覚える中、熱燗を飲みながらであるからして余計なんである。

風邪と言えば一週間ほど前から風邪をひいちゃった。ピークは木曜の晩。仕事部屋で暖房をかけていても悪寒が止まらず上下ヒートテックを着込んでから厚手の服を着て更にダウンベストを羽織ってもまだ寒い。やっべ、風邪の野郎俺の中に完全に居座りやがったな。風呂に行き裸になると震えが止まらない。慌てて部屋に戻り体をファンヒーターで十分に暖めてから熱めの湯船に身を沈める始末。なんとか土曜のQ卒部式には行けたものの、延々昼から夜8時頃まで続いた酒宴の席では酒はほとんど進まず、あまり酔えなかったんであった。Kurashige号、Sashiki号の送迎してもらった車の中では極力咳をしないように心がける。これを書いている今も時折咳が止まらないが、だいぶ良くはなってきている。

小説「月に雨降る」のこと。
一回のブログアップには400字詰め原稿用紙で平均して5,6枚程度、短くて4枚、長くて8枚ほど。ブツ切れでの掲載は読み手を混乱させて、一気読みが出来ないイライラ感を助長させることは百も承知なんであるけれど、致し方なし。Queens新年会でもSohma会長に「Teshimaさ〜ん、小説いつ完了するのよ?」...昨日の卒部式でもMurata代表が「Teshimaさ〜ん、芥川賞はいつ?」...今日のフレンズでもKaneda顧問が「テッシーさあ、希伊のその後が早く知りたいんだけど」と。少年野球ブログの中で小説を書き始めるという暴挙に出て、フレンズではKanedaさん以外ほとんどの人からの反応はなく、フレンズでは誰も読んでないのかと疑心暗鬼、むしろ他チームからの父母から言われることのほうが多い。例えば連合で知り合えたメイツHazama母や、バーズ、Qの熱烈な「晴耕雨読」ファンと言ってもらっているYoshikawa母などである。そして連盟事務局の至宝鬼の編集長Nishimuraさん。きっと遠くから見守ってくれているに違いない。そんな声をかけてもらうことが小説執筆のモチベーションとなるわけで、とてもありがたし。短編と長編の線引きは曖昧だけれど、長編小説とは原稿用紙で200から300枚らしい。今、佳境に入っている「月に雨降る」は現在219枚まで行った。晴れて長編の領域に入ったんである。

前回ブログで「球遊学恋」という多少苦しげなタイトルで、中学生の部活あるいは学校生活をなぞらえてみた。野球を頑張って、仲間と遊んで、学業も怠らず、そして恋をする。親の庇護の元、家庭中心だった生活が中学になると、次第に初めて親抜きでの世界を知ることになるのが中学時代だと思う。
この「球遊学恋」(きゅうゆうがくれん)を野球のみに転じて言葉を並べ替えてみた。
「球恋遊学」(きゅうれんゆうがく)
野球に恋して夢中になって遊んでいるうちに、社会人になっても通用することの基礎を学ぶことになる。

いささか強引だったろうか。
やばっ、もう寝なきゃ。こほこほ、げほげほ。相棒Macに向かっていくら咳をしても彼に風邪はうつらないので安心だ。
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2017年1月18日水曜日

小説「月に雨降る」33

翌朝会社のデスクの電話が鳴った。
「はい、T&Dです」
「もしもし、私、トラスト探偵事務所の黒坂と申します。そちらに神島さんという方はおられるでしょうか」
電話をとった恭子は驚いた。探偵事務所っていったい何?リュウさんに何の用だろう。心がざわめきながら龍一に電話を取り次いだ。
「神島さん、黒坂さんという方からお電話です」
「ん、誰?」
眉間に皺を寄せてiMacのVectorWorksと格闘していた龍一が言った。
「探偵事務所の方だそうですけど」
探偵事務所?黒坂?怪訝な表情で受話器を持ち上げた。
「はい、神島ですが」
「初めまして、トラスト探偵事務所の黒坂と申します。神島龍一さんでいらっしゃいますね」
「ええ、はい、そうですが」
「単刀直入に申し上げます。永山希伊さんのことをご存知ですよね」
龍一は一瞬相手が言っていることが理解出来なかった。
きい?希伊?
誰だこいつは。動悸が早まるのを感じた。
「もしよろしければ、一度お会いして彼女のことでお話ししたいと思ってお電話差し上げました」
龍一の返事は心の動揺とは裏腹に勝手に口をついて出た。
「はい。もちろん」

仕事を早々に切り上げて、約束の恵比寿駅前の喫茶店に入った。黒坂はすでにコーヒーをすすりながら待っていた。黒いロングコートと赤いスェットシャツにストーンウォッシュジーンズ、真っ赤なスニーカーを履き、薄いグレーのサングラスを掛けた初老の男だった。短く刈り込んだ頭には白いものがだいぶ混じっていた。年の頃はすでに50代半ばだろうか。街で見かけた他人ならば一瞥して胡散臭い男と決めつけているはずだ。だが電話での丁寧で柔らかい物腰が印象に残っていたので、人を見かけだけで判断してはいけないことを自分に言い聞かせた。互いに名刺交換を済ませると、龍一は勢い込んで言った。
「希伊のことでお話があるそうで。いったいどういうことですか」
「私は永山希伊さんが高校生の時に調査を依頼された探偵で黒坂と申します」
瞬時に記憶が蘇る。あの日の晩、希伊が自分の生い立ちを初めて龍一に語った時、高校三年生の時分に探偵に依頼して出自を調査してもらったと言っていた。あのときの探偵がなぜ今頃俺に連絡をして来たのだろう。希伊の名前を出されて動悸が早まる。
「15、6年前に希伊からある話を聞いた時に、探偵さんに依頼したと言ってましたが、それが黒坂さんなんですね」
「そうです。神島さんはすでに希伊さんの生い立ちの話は知ってらっしゃるのですね」
「はい、おおよそのことは彼女から聞いて知ってます」
「では話は早い」
「でもどうして私のことを知っているんですか」
それには答えず煙草をもみ消して黒坂は話し始めた。
「希伊さんに調査報告をして実際的には私の仕事はそこで終わったわけですが、まだ高校生だった彼女の放心したような顔を見ると、どうにもいたたまれなくなりましてね。機会があれば仕事抜きでも協力してあげたいと思ったんです。でも日々の忙しさにかまけて、その思いはすっかり引き出しの奥にしまい込んだままでした」
龍一は質問をはさまず黙って聞くことにした。
「それから何年経った頃でしょうか。たぶん7、8年は過ぎていたと思いますが」
すぐに逆算してみる。その頃なら希伊が龍一のもとを去ってまだ間もないはずだ。龍一が煙草に火をつけると、黒沢もショートホープとジッポーを取り出した。
「仕事の関係で富山へ出張があったんです。二泊したあと明日帰京するという時になってふと思い出した。希伊さんの生まれが隣の石川県の金沢だったことをね。幸い翌日は休みだったので、帰る前に金沢へ寄ってみようと思ったんです。いや、でも、これといった当てはなかったんですが」

龍一は黒坂の話がこのあとどう展開していくのか全く分からぬまま、ひとことも聞き逃すまいと目の前の男の顔をまっすぐ見つめた。
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2017年1月12日木曜日

小説「月に雨降る」32

翌日会社に出勤すると部長の鈴木孝雄が龍一と月地信介をデスクへ呼んで言った。
「今やってる鹿児島のプロジェクトだけどさ。高須磨社長から昨日の夜電話があってな、いきなりなんだけど今日どうしても上京して東京の店舗をリサーチしたいとのことなんだ」
「えっ今日ですか」
「今日?マジっすか」
苦笑しながら孝雄も返す。
「マジだよ。高須磨さんの性格、おまえたちも知ってるだろ。思い立ったらすぐに実行に移す。あの人らしいよな。二人の今日のスケジュールどうなってる」
龍一は終日三宿のレストランのプレゼンの準備だったし、信介はバルセロナに出店する日本企業の企画書を英文でタイプする仕事があった。しかし二人ともほぼ同時に応えた。
「大丈夫です」
「全然OKっす」
ニヤリとして孝雄。
「オッケー牧場。じゃあ16時に羽田集合」

夕方鹿児島から羽田へやってきた高須磨ら一行5人を迎えた孝雄たちは、そのまま都内のバルへ案内した。最近出来たばかりの店で、鹿児島の新鮮食材だけを使った料理に、レアな黒糖焼酎などを飲ませる「ごまかし」という妙な名前の小さな店だった。これは信介が以前から懇意にしていたこの店の若いオーナーに連絡をとって急遽予約したものだ。高須磨一行とビジネス抜きで酒を酌み交わし談笑する。ほどよく酒が回ってきたところで高須磨が改まって切り出した。
「うちは今は鹿児島で成功しちょるけど、ゆくゆくは東京に店を出すごっちゃと考えとるんじゃよ。東京のブランドが地方に店を展開するのと、地方の企業が東京に進出するのとでは雲泥の差があって、我々はそもそも腹をくくってやらんといかん。そこで今回はあの国際的に飲食チェーン展開しちょる永山さんの店にリサーチに行こうと思って東京に来たんじゃ。もちろんその時は孝雄さんとこのT&Dさんに設計をお願いしようと思おとる」
龍一に衝撃が走った。
「永山...」
希伊の育ての親、しかし人として非道な男がトップに君臨する巨大企業だった。二十代の若い頃自由が丘の要塞のような自宅を訪ねたことが脳裏に蘇る。この世界広いようで狭いのが業界では常識だった。龍一ももちろんこの業界に身を置く者として、あの永山が希伊の親であり国際企業の総帥であることは百も承知だった。そのことに龍一はずっと目をつぶってきた。しかしよりによってこんなタイミングで永山の名前に接する日が来るだろうことは思ってもみなかった。龍一は希伊の実家の自由が丘に行ったあのとき、家政婦のかな江から永山の携帯番号を教えられたのだったが、思い悩んだ末にとうとう電話出来なかった自分に引け目を感じ、以来永山の巷に溢れる飲食店に入ることを忌避してきたのだった。しかしこの仕事をしている以上はいつかは関わることになるだろうと思っていた。
高須磨の希望で一週間前にオープンしたばかりの、新宿西口高層ビル街にある居酒屋へ行くことになった。高名なデザイン事務所が手がけた店で、250坪ものスペースの中央に噴水を設(しつら)えてボックス席と個室ゾーンとに分かれており、時間はまだ早かったもののすでに7割がた客席は埋まっていた。建築雑誌にも載っている話題の店だった。その圧倒的な空間に龍一は一瞬たじろいでしまったが、くっそ、俺にもこれだけの建築予算を与えてくれたらもっといいデザインをやってやるぞと、内心悔しい思いがよぎった。潤沢な予算をかけても必ずしも良いデザインが出来るとは限らないことはよく知っているし、普通はそんなことを言う龍一ではなかったが、この時は背景に個人的な永山との確執があったため、柄にもなく取り乱してしまったのだった。

今進めている鹿児島でのプロジェクトの話から始まり、やっぱり東京の女性は奇麗だ、俺も若い学生の頃は世田谷に住んでいてめちゃくちゃに遊んだ、といういつもの高須磨節が披露されるまでさほど時間がかからなかった。しばらくしてほろ酔い気分でトイレに立ち上がった高須磨だったが、なかなか龍一たちの個室に戻らなかった。鹿児島の営業部長が「社長どげんしとるね。またトイレで寝とるとか」と言って席を立ち様子を見に行こうとドアを開けると同時に、もっそりと高須磨が顔を覗かせた。個室に戻ったのはひとりだけではなかった。二人目に部屋に入って来たのは髪を七三に分けた長身のスーツ姿の男で、押し出しの利くやり手のビジネスマンのような風貌だった。こいつの顔は雑誌でもテレビでも嫌というほど知っている。龍一にまた電撃が走った。高須磨が言う。
「いやあ、こげな偶然あっとじゃろか。こちらオーナーの永山社長さんだよ」
トイレでひょんなきっかけで声を掛けたら永山と分かり、隣の個室に招かれてしばらく談笑していたのだと言う。高須磨はストレートな性格なので上京の目的を正直に話し同業者とはいえ永山と意気投合したというのだった。当然の成り行きで孝雄たちもここで名刺交換することになった。龍一は驚いたがすぐに冷静になって腹をくくった。
「初めましてT&Dの設計部、神島と言います」
龍一の名刺を手に取り怪訝な表情で見ていた永山が、ふと遠くを見る目をしてのち、みるみると表情がかき曇った。
「神島龍一...まさか、君はあの時の希伊の」
それだけで氷解した。龍一はあのとき妻の奈津子に名刺を置いて去ったのだった。おそらく彼女は永山が帰宅してその名刺を見せ、龍一の来意や一部始終を話して聞かせたのだろう。名刺を見ただけで15年前の記憶が蘇生するとはさすがだ。彼の目の色は驚愕から怖れ、更に猜疑的になり、最後は険しい暗い色に変わった。龍一は瞬きもせずに目に力を込めて永山を見続けた。それだけでお互いを理解するのに十分だった。永山にすれば希伊のことが世間に知れたら一大スキャンダルになるはずだ。しかしそこは弁護士団を擁する巨大企業、用意周到に隠蔽工作も万全なのだろう。どちらにしろ龍一にはそのことを糾弾し世間に公表することなど毛ほども考えていない。希伊がマスコミに追われ、白日の下に引きずり出されるかもしれないことを思えば、そんなことは出来るはずもなかった。永山との目線のやり取りだけでこれ以上の言葉は不要だと互いに理解した。
「えっ、神島さん永山社長と知り合いだったんですか」
と驚いた信介が言い一同が一斉に龍一を見た。
「いやいや、怖れ多くもこんな有名人と俺が知り合いなわけないだろ。お会いしたのは今日初めてだし。ですね、永山さん」
龍一は二人にしか分からないであろう目線を永山に送り彼を見やった。
「ああ、よく似た名前の人が頭によぎったもので勘違いしました。失礼しました」
皆しばらく立ったままで業界の近況などの話をして永山は退室していった。ドアを閉める時龍一の目を射るような視線を送ったのをしっかりと受け止めた。

この日を境に龍一は、希伊を思う自分の心が再び大きく彼女に傾くのを知った。
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2017年1月3日火曜日

小説「月に雨降る」31

兼六園を出るとさすがに疲れた。香林坊方面へ戻る途中で見かけた、赤いトタン屋根の民家を改造したようなオープンカフェに入ろうと思った。希伊を見ると彼女は一瞬立ち止まり、じっとその店を凝視していたような気がした。何かこの店に感じ入るものがあったかのように。その時の希伊はどこか遠くの記憶を辿るような表情だった。声を掛けようと思った龍一だったが、彼女の横顔の硬さがそれを無言で拒否していた。
明日は犀川大橋を渡って忍者寺で有名な妙立寺まで足を伸ばす予定だった。昨日まで熱いドリップコーヒーを飲んでいたが、二人とも今年初のアイスコーヒーを注文した。
「これはさ、俺のこだわりなんだけど知ってた?」
「ん、何が?」
龍一はグラスにまずシロップを入れてそれをストローで上下にかき混ぜた。そののちミルクをゆっくり蚊取り線香状に回しながら静かに落とす。それからおもむろにストローで底の部分をひと口飲んでみる。次のひと口はグラスの上面に渦巻くミルクとコーヒー本体の融合する部分を吸い上げる。
「この手順をひとつでも間違ったらアウトなんだ。最後の上面を啜った時にそのコーヒーの真価が判明するんだよ」
「何それ?」
「ミルクの甘みとコーヒーの苦みが融合するその絶妙な領域を味わうのが俺の流儀なんだ。その場所は河口付近で海水と淡水が混じり合うみたいな所なんだよ」
「何それ?」
「まあ、女には分からないかな。いわゆる男のこだわりってやつか」
「何それ?面倒くさっ。胃袋に入っちゃえば一緒じゃん」
希伊はニコニコしながら続けた。
「男のこだわりって言うか、それはリュウ個人の思い入れじゃないの」
「うん。そうか、そうかもな、確かに」
毎日同じ屋根の下に暮らす男女でも、時にこういった相手の細かいことや微妙な性格の違いなどには、思いのほか気がつかないものだということに気がついた。『気がつかないことに気がついた』というフレーズに思わず龍一はニンマリした。
「何をニヤニヤしてるの。変な人」
希伊にこのフレーズの可笑しさを伝えると希伊も相好(そうごう)を崩して、ころころと笑った。
龍一は思った。希伊にはどこか不思議な領域を持っていて、それは龍一と希伊の交わる最大公約数を越えた部分に、何人(なんぴと)も立ち入ることの出来ないエリアがある。何か自分には推し量ることの出来ない秘密めいた穴蔵のような場所だ。何でも言いあえる仲だったが、希伊は俺に言えない秘密を隠し持っているような気がした。それは悪意のある嘘とかではなく、言いたくとも言えない種類のように思えた。
こののち数年後それが判明するのは、雨が次第に強くなってきたあの土曜の晩の希伊の独白だったが、この時の龍一には知るすべもなかった。
「ねえリュウ、なに物思いにふけってるの」
「いや、なんでもない。宇宙の起源にまつわる混沌としたカオスの中にいる自分に思いを馳せていただけだよ」
「あら、宇宙に行っちゃってたの。そりゃ大変だ。酸素ボンベの残量は大丈夫?でもそんなことよりさ」
カフェの外はいつの間に夕まぐれの微妙な薄い闇が足元に忍び寄って来ていた。いたずらっぽい目をして希伊は続けた。
「もうホテルへ行こうよお。疲れたし、お風呂に入ってごはん食べて、それから」
「それから?」
希伊の瞳に浮かんだ熱を帯びた色を見て、龍一の体の芯も熱く重くなるのを感じた。

恵比寿のバーで龍一はそんな昔の想い出にひたりながら、希伊はいったい今どうしているのだろうと思った。そんなことは今まで何度も想像してきたが、四十を過ぎてその頻度と深度は増すばかりだった。今でも髪の毛はショートカットなのだろうか。どんな化粧をしているのだろうか。なんの仕事をしているのか、或いはしていないのか。暮らしぶりはどうなのだろうか。そして最後に思うのはいつも決まっていた。
「結婚しているのだろうか」
常識的にはすでに結婚して子どもがいて当然だった。頭では分かっているつもりだった。どうか幸せな家庭を築いていて元気に暮らしていて欲しいと願う、心から。しかし、もし、まだひとり身だったとしたら。そう考えるといつもその先の思考にまで及ばず、深くほの暗い沼のほとりで立ち往生してしまう龍一だった。

「おい、神島。どうした、しっかりしろ、傷は浅いぞ」
真壁の言葉でふと我に返った。ここは金沢ではなく恵比寿だ。どうやら希伊との過去の時間にタイムスリップしていたらしい。なぜか最近希伊への執着心がいっそう強くなってきたようだ。自分では如何ともしがたい心のうねり、気持ちの転変だった。最近の俺はどうしたのだろう。このままで良いのかと自問自答してみる。
「すまん真壁。俺の怪我は致命傷のようだ。俺を見捨てておまえは先に後方部隊へ戻れ」
真壁も負けずに返して来た。
「何を言う貴様。俺はおまえを背中に背負ってでも日本へ帰るぞ」
「貴様こそ何を言う、敵はすぐそこだ、共倒れになるぞ。故郷(くに)に帰ったら女房によろしく伝えてくれ。俺はもう逝く、ううっ」

龍一が喉に左手を当てて、右手を天に向かって突き出すと、やっとこの茶番のオチに笑いが起きた。気がつくと店には二組の客もいて一緒に笑ってくれた。隣の恭子に目線を転じると、顔はからからと笑いながらも、瞳の奥には不安と淋しさの入り混じったものが滲んでいた。龍一の最近頻繁になった、独り殻に閉じこもったようなもの思いに、言い知れぬ淋しさと微かな猜疑心を感じる恭子だった。
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2016年12月31日土曜日

ありがとう2016

このブログ7,8年続いているけれど、12月31日の大晦日にはほとんど更新しているわけで。今年も今日この日を迎えてしまった。

ブログ掲載した写真の中で、今年1年を振り返ってのベストをチョイスするのも恒例であった。粛々と循循と滾滾(こんこん)と掲載しちゃう。

「いつまでもフレンズで、みんなと一緒に野球がしたかった」
との名言を残して大阪へ転勤となって行ってしまったTekeru。最後のお花見の時に皆で胴上げ。縦に上下する様を瞬時に判断して、カメラを縦位置に構えての一瞬。奇麗にTakeruの嬉しげな表情を捉えることが出来た。

今年年初に掲載した全世界驚愕のワンコ「ドッグ」くん。三重県の美容院を経営する家で飼われているワンコなのだった。見よ!このギネス級の巨大さ。

その後友人からまた写真が送られてきた。これはブログには掲載したのだろうか、自信はない。フレンズLINEにはアップしたのだけれど。湿疹が出来ちゃって体の毛をごっそり剃られてしまったドッグくん。心なしか恨めしげな哀しげな目がたまらない。
それにしてもなんということでしょう!匠が手がけた改築前と改築後のこの落差。

今年の数ある集合写真の中でも群を抜いて特筆すべきは、Queens10th記念式典の最後に撮ったこれ。全員素敵な表情で写真的にもくっきり鮮明に撮れた大集合写真。アフリカの一夫多妻家族のようだ。故笠原氏が言っていた「Queensは家族みたいなものだから」

これはつい最近のベストショット。といっても私の撮ったものではない。母からLINEにアップされたものだ。「美魔女の特急便」なのだった。この他にも何枚も傑作がアップ。こんな楽しいセンスを持っている彼女たちが俺は大好きだ。思わずハグしてチューまでしたくなるほどの傑作。

秋に第一公園で試合後に撮った一枚。ハーフトーンの影のグレーが秋を物語る。電線に止まった子スズメたち。

子スズメと言えばこの子。Ruiの妹サッキーことSakiがおニューの自転車に乗っている。車輪のスポークがキラリと光り、カメラレンズとSakiの目線が合った瞬間であった。

そして今年のベストワンのショットはたぶんこの一枚かな。
初夏の遠征に行った時のもの。緑萌えるグランドでシャボン玉を吹きながら親子が歩く姿。ココロがほっこりする一葉。
カメラマンはド素人の筆者ではあるけれど、写真には独自の持論がある。
素晴らしい写真とはカメラマンの腕やカメラの性能ではなく、被写体、素材がいかに素晴らしいかによって左右される、ということ。撮影者の善し悪しはその一瞬を感じとってシャッターを切れるかどうか。その一瞬を見逃さないことがカメラマンの矜持(きんじ)であると思う。シチュエーションの良さとモデルたちの良さもあって今年のベストはコレに決定なんである。

..............
今年もこの少年野球「晴耕雨読」BLOGを飽きもせずご覧くださってありがとう。
駄文的小説「月に雨降る」を辛抱強く読んで下さってありがとう。
今年一年ありがとうございました。

来年も少年野球「晴耕雨読」をどうぞよろしくお願いします。
2017年、みなさまにも良い年となりますように。
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2016年11月10日木曜日

小説「月に雨降る」30

まだ客のいないバーで三人が親密に談笑していると、店内に流れていたBGMがやっとエルトン・ジョンから、ビートルズに変わった。しばらくして流れてきたのは、アルバム「ラバーソウル」に収録されているバージョンのジョン・レノンが歌った「ノルウェイの森」だった。真壁と恭子が熱心に何かの話題に夢中になっているのを尻目に、龍一は少しずつ「ノルウェイの森」の世界に深海探索機みたいにゆっくり沈んで行った。刹那的なひと晩の蜜月のあと、翌朝女の子は部屋を出て行った、というような掴み所のないもやもやした感触の残る、けれどどういうわけか妙に脳裏に焼き付けられるシンプルなスローバラードだった。龍一は高校時代にCDが擦り切れるほど聴いたものだった。人によって解釈は違うのだろうが、龍一にとっては近くに迫った世界の終末を、遠雷を聞くような感覚で聴かせるアンニュイで不思議なメロディーと詩だった。更に昔から傾倒している村上春樹の小説「ノルウェイの森」のことにも思いが及び、夜の海に浮かぶ光るクラゲのように心はゆらゆらと泳いで行った。
手にしたグラスの角の丸くなった氷をゆっくり回していると、次第に希伊のことが頭に浮かんでは消えた。日曜の雨が降る朝に彼女は姿を消した。あの時の記憶だけはいまだに鮮明に龍一の胸に刻まれている。およそ15年も経てば記憶は風化し、そこかしこに経年劣化の錆が浮いているものだが、希伊のことはどうしても忘れられなかった。
相変わらず真壁と恭子は楽し気に何かの話に静かに盛り上がっていた。珍しく真壁が笑っている。恭子も楽しそうだった。それをいいことに龍一はまた過去の記憶の坂道をゆっくりと下って行った。希伊と過ごした記憶の坂道の途中にあったのは、一緒に暮らすようになって間もなくふたりで金沢へ旅行したことだった。記憶は二人が二十二、三歳の頃まで遡っていく。

「ねえ、リュウ。突然なのは十分分かってるけどさ、明日金沢に遊びに行かない?」
「えっ、なんだよ突然。金沢?」
「そう、金沢」
「なんでまた金沢なんだよ」
「なんか知らないけど金沢なんだよ」
「俺も一度行ってみたいと思っていた所のひとつが金沢だけどさ」
「わたしはもう一度行ってみたいところが金沢なの」
「へえ、以前に一度行ったことがあるんだ、希伊は」
「う~ん。行ったと言うか、いた、と言うべきか。わたしにもよく分からないけど、とにかく金沢に行ってみたいの」
その頃はまだ希伊の口から自身の出自のことはもちろん聞かされていなかったから、金沢と言われてもピンと来なかったのだった。
「まあ、なんかよく分からないけど、明日から土日休みだし、資金も多少ならあるし、このところ二人でどこにも遊びに行ってないからな。しかし急だなあ。明日神宮へプロ野球観に行こうくらいの軽いノリで簡単に言ってくれるよねえ。さてどうしたものかなあ」
と逡巡していると、希伊は龍一の言葉を最後まで聞かずに、もうJRの時刻表を捜しに本棚に向かっていた。人は肯定的要素がいくつも存在し、反して否定的要素が皆無の場合はそれを実行に移す生き物だ。あとは実行力があるかないかだけの差だ。こんな時は龍一よりも希伊のほうが圧倒的に行動力があった。にこにこしながら時刻表と格闘する希伊がまた可愛いと思う龍一だった。


翌朝の土曜は春爛漫のうららかな日和だった。東京駅からJRで富山を経由して石川県金沢市に着いた。まだ北陸新幹線のなかった時代だ。駅を出ると近くのレストランで昼食をとり、バスで金沢城公園へ向かった。すでに天守閣はなく中央を南北に縦断する道をゆっくり希伊と歩いた。公園を抜けて通りを渡ると兼六園だ。龍一は昔から日本庭園が好きだった。兼六園は初冬の頃の雪囲いが有名だがこの時季の陽春の散歩も格別だった。希伊と取りとめもない話をしながらのんびり庭園を散歩するのは、この上もない極上の幸せに思えた。それを希伊に伝えると彼女もまたにっこりとして、無言で強く腕を絡ませてきたのだった。
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2016年10月28日金曜日

小説「月に雨降る」29

龍一は珍しくわずか1時間ほどの残業で恵比寿三丁目にある会社を出た。この業界1時間の残業は残業のうちに入らない。このところ全社的に少し仕事が緩くなってきて社員たちは概(おおむ)ね歓迎だったが、役員たちは眉間にシワを寄せることが多くなって来た。もともとT&Dは業界でも堅実経営の会社で有名で、年間を通じて多少の波はあっても大きく業績が落ち込むことは少なかった。しかし近年のリーマンショックの時は業界全体にわたり、春が終わりかけた頃に夏と秋を飛び越えていきなり冬がやって来たような冷え込みようで、その時ばかりは決まった案件が軒並みペンディングになり、現場も計画も凍結されて一時期売り上げが相当落ち込み、T&Dもその例外ではなかった。
サッポロビール工場跡地に建ったガーデンプレイスの高層ビルを左手に仰ぎ見つつ、山手線を睥睨(へいげい)しながらアメリカ橋を渡り、右へ折れる坂道をゆっくりと下っていった。ジャケットの内ポケットからiPhoneを抜いて恭子にLINEを送った。
『もうじき着くから』
すぐに返信が来た
『もう、一杯目のビール飲んじゃったよ』
『じゃあ、俺の分もいれてビールふたつ頼んでおいてくれたまえ、鈴木くん』
『了解しました、神島課長殿』
恭子と待ち合わせたのは恵比寿駅から歩いて5分ほどのデザイン学校の裏に出来たオープンテラスのある、日本そば屋の主人が出した創作和食の店だった。ほとんど人通りのない暗い路地に店名の入った控えめな行灯が置いてあり、垣根越しにテラス席の客の会話が漏れ聞こえるようなひっそりとした佇まいだ。龍一の取引先の尊敬する先輩に連れられて以来、恭子と何度か来ている店だった。最近の設計案件の話や会社での出来事、社内で誰と誰がつき合ってるらしいとか、朝礼の時に社長の頭が随分薄くなってきたことを発見したとか、とりとめもない話に興じた。腕時計を見て龍一が言う。
「そろそろ真壁が店を開けてる頃だな。Makiにいこっか」
「うん。いつものコースね。ラジャー」
「何、ブラジャーがどうしたって?」
「おお、そう来たか。リュウさんのエッチ」
「今頃気づいたの」
「キリストが生まれる前から気づいてたわよ」
「バレたか」
龍一は一瞬、昔こんな会話を希伊ともしたことがあったなと想い出して、恭子を前になんだか鉛を舐めたような気分になった。
大学時代の友人の真壁がやっているバー「Maki」は、恵比寿神社のすぐ横にある恵比寿西一丁目の小さな店だ。龍一が会社に内緒でバイトで設計した。以来ここも何度か通った。重厚な黒いドアを開けるとまだ準備中だったのか、いつものビートルズのBGMが流れていなく、しんとした空気の中で真壁が生真面目にカウンターを拭いているところだった。まるでギネスのボトルに発泡酒を入れてそうと知らずに飲まされたような気分だった。
「おう」
と龍一が言うと相変わらず真壁の返事は、二人の客の顔も見ずに、
「ん」
だった。他の客には『いらっしゃいませ』と経営者としての或いはマスターとしての最低限の言葉を発するのだが、龍一にはたいてい『ん』だった。たまに間違って龍一に『いらっしゃいませ』と言ってしまった時には、打者にフォアボールを与えてしまった投手のように軽く舌打ちしたりする。日本語の中でおそらく最も短い、彼なりの親愛の情を込めた単語なのだ。
「最近どうよ店の調子は、真壁」
「ん。まあまあだな」
真壁がまあまあと言うのはそれなりに商売になっている証拠なのだろう。龍一たちはいつも2、3杯飲んで帰るのだが、ここの店は夜半過ぎから六本木や中目黒から流れて来た常連客で朝まで賑わうのだった。恐ろしいほど無口で無愛想なマスターが、逆にその、人に媚びない人柄が人気の秘密らしい。かと思えば妙齢の女性の一人客などには親密に話し相手になったりもする。いつだったか店を閉める時に、泥酔した女性客をタクシーで自宅まで送ってやったことがあったそうだが、その話を聞いた龍一が、
「あらら、そのあとどうしたのよ」
という問いに彼は、
「ん、そのあとどうもしないよ」

と答えていたが、真壁の眉が微妙につり上がっていたのを見逃さなかった。思わずニヤリとした。真壁は嘘をつく時は必ず眉を吊り上げる癖があることを龍一は知っていた。
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