先々週土曜夜は久々のフレンズ飲み会...という名の、実は代表Yanagisawaさんと顧問Kanedaさんのお誕生会なんであった。母たちは二人には「ただの飲み会」なんて言っておきながらの、実はサプライズのハッピーバースデイなんである。
Yanagisawaさんはほぼフレンズ創立当初からの、Kanedaさんは約20年前からの、フレンズの生き字引、レジェンドなんである。二人のチームへの貢献度はチョモランマよりも高く、チームへの愛は太平洋よりも深い。ここでそれを述懐するには枚挙にいとまがなく、記述するには頁数が足りないわけで。またその常人とは思えぬ若さについては、筆者が還暦になった記念に書いた過日のブログに詳しい。なので、今回はあえて余計な文言は抜きで写真にて。
フレンズ御用達だった有馬の居酒屋が数年前に閉店し、そのあとある程度の大人数で集まれる近所の飲み屋は「むつき」、ここしかなくなったんである。その地下で和気藹々と飲んでいた時、突然店内の照明が消えた。
筆者(おお、いよいよだな...)と思ったわけで。
「ハッピーバースデイ、おめでとう代表、Kanedaさ〜ん!」
と母たちから艶っぽい声。Takahashi母の手にはケーキが載せられていた。
パチパチパチ!と会場から大拍手。
一気にみんな笑顔になる。
母たちからの記念品と手作り写真立て。今年の子らの写真もしっかり入っている。ケーキには「だいひょう」「きんさん」の文字が。歴代の子供たち親たちに愛され、慕われ、尊敬されている証(あかし)である。Yanagisawaさんが少し昔、年齢を理由に監督の時やその後の代表職の時に、若い人に道を譲りたいと職を辞すると言った年は、筆者必死で説得、慰留に努めたことを今でも覚えている。「チームの心の柱であって欲しい」と何度も懇願したんであった。Kanedaさんもやはり数年前コーチを辞めたいと言ったわけで。筆者も周囲も何年も慰留したのだけれど、おん年を鑑みればその心情も理解できるわけで、それでは少しでも肩の荷が軽くなるならばと「顧問」という名義にしてもらったんである。
歯が浮くような照れ臭い言葉を面と向かって言うのは、実にはばかれるものだけれど、ブログで文字にするのなら少しは羞恥心も薄らぐので書いちゃう。
「いつまでも元気で子どもたちとフレンズを見守って下さい」
せっかくなので毎度お馴染み、フレンズが世界に誇る我が美人妻軍団。企画してくれた母たちお疲れさま、アリガトウ(^-^)
.......
さて、ここからは日々雑感的どーでもいいブログなんである。
この日の翌日日曜は午前第一公園へ行き女子の試合を観戦したことは前回書いた。そのあと私用があり新宿プリンスホテルへ。
久々の新宿であった。新宿は筆者が高校卒業後18から21くらいまで濃密な青春時代を過ごした場所である。昼も夜も、表通りを闊歩し裏道を徘徊していた。上京して初めてバイトしていたのが新宿三丁目の英国正統派のパブレストラン。ここは大学生になった中学の時の同級生がわざわざ飲みに来てくれた店でもある。学校を出て次にバイトで食っていたのが歌舞伎町地下三階のパブだった。オーナーに気に入られて21歳でバイト店長になり、社員の入社面接までやっていた。アメリカサンフランシスコのデザイン学校留学という夢のために、朝から晩まで必死で金を稼いでいた時代だった。口髭を生やすようになったのもこの頃からである。
夜、終電の時間を気にしながら仕事を終えて、歌舞伎町の酔っ払いやその筋の業界の人らを尻目に、新宿コマ劇場前の喧騒の街を早足で駅へ向かったものだった。
それがどーよ。先日コマのあった場所を振り返れば超高層ビルが屹立(きつりつ)していた。
よーく見てみるとビルの中ほどに巨大なゴジラが、まるで露天風呂に浸かったひょっこりはんが下界を見下ろすように、ひょっこり顔を出していたんである。ゴジラ完結編の広告なんであった。TSUTAYAで借りて観ちゃおうではないか。世界に誇るニッポンのゴジラ、大好きなんである。
新宿は短かったけれど濃密な想い出が詰まっている。それを語るにはやはり頁数が足りないんであった。そんな想い入れのある地は筆者のみならず、人それぞれ誰のココロにも存在するはずだ。あなたにもあるでしょう?...拙著(てか、出版はしてないけど)当ブログ小説「月に雨降る」の神島龍一の若いころの舞台にもなっている。
三丁目のアルタ前。「しょんべん横丁」へ通じる高架下の通路。ここを抜ければ西口高層ビル街へ行ける唯一の近道なのは今でも同じだ。筆者学生の頃は浮浪者のたまり場で、鼻をつく消毒液が常に側溝を流れていたちょっとヤバイ雰囲気の薄暗い通路であった。
そんな記憶を胸に駅へと向い帰路についたのだった。
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